寄り道映画批評「キャロル」
2018-02-12 (月)
「キャロル」
ケイト・ブランシェット主演の2015年制作「キャロル」を見た。ニューヨークを濡れた映像で美しく描いた秀作。ケイト・ブランシェットが50年代のタイトスカートに身を包み匂うように美しい。
この映画に出てくる男たちは、皆怒っている。キャロルの夫は、深く妻を愛していて、クリスマスを妻と娘と一緒に過ごしたいと自分の実家に誘うが、キャロルは拒絶する。もう一人の主役、テレーズに好意を寄せる男たちも彼女に怒っている。ボーイフレンドのリチャードは彼女をパリに誘うが、彼女はキャロルと旅に出ると言う。「きっと後悔するぞ」と言い残し、彼はテレーズの部屋から出ていく。
「キャロル」は秀逸な恋愛映画だ。恋愛や結婚の本質が映画によってあぶり出されてくる。この映画を観ていて、恋愛感情とは何かを考えているうち、脳の事が気になってきた。いろいろ調べて、怒りも悲しみも恋愛感情も脳内の「科学反応」つまり、「ケミカルリアクション」に強く影響されるとの考え方に出会った。
その考え方に沿って、キャロルに話を戻す。キャロルもテレーズも女性相手でしか、高揚しない。彼女たちの脳は、性をつかさどる部分が男性なのだろう。1950年代の話だから、こんなことは大っぴらには、言えない。生まれつき脳の構造が肉体的異性を対象にできないのだから、夫を愛せない(恋できない)のは当然で、努力で取り繕うにも限界がある。
このような極端なシチュエーションは、恋愛についての本質をあぶり出す。男女のふつうの恋愛でもつまりは「蓼食う虫も好きずき」という事だろうか。虫がどの蓼を好きなのかはその虫の「ケミカルリアクション」なのであって。虫の理性とは無縁でどうにもならない。これを人間の恋愛について置き換えれば、誰かがある人に恋愛感情を抱いても、その相手が好意を返してくれるかどうかは、その人の理性の問題ではなく、脳のケミカルリアクション次第と考えると、恋心を返してくれない相手を責めてもしょうがないということになる。男性に化学反応を起こさない女性を配置し恋愛を描いた、この映画はうまいことやったな、と思う。
ジョディフォスターは、実生活では人工授精で子供を授かり、女性を配偶者とし、公表してている。映画「キャロル」の主人公キャロルは、男性と結婚し、裕福な暮らしを手に入れ、子供を設けている。現代だから可能なのだと思うが、夫を苦しめたキャロルよりは、ジョディフォスターの生き方がいい感じがする。しかし、まあ「化学反応に左右されるなら、感情はあてにならない。」とも思える。映画のキャロルもう少し理性を使えたら、結婚はしかったかもしれない。あ。それでは映画にならないか・・・。