システム経営BLOG

正露丸

どこの家の救急箱にもたいていは入っている正露丸。効能を見ると軟便、下痢、食あたり、水あたり、はき下し、くだり腹、消化不良による下痢とあり、むし歯痛、虫歯にも効くとある。筆者もよく腹を壊しては、正露丸のお世話になった。砂糖を身にまとい飲みやすくした正露丸トーイ(糖衣)というのもあるが、あの独特の薬臭さが薬効を期待させるのか、筆者は普通の正露丸を好む。

最近、「飲んではいけない薬」という本の中で、正露丸が取り上げられているのを見た。最新の医学では下痢は止めずに悪いものを出し切ってしまうのがいいらしい。今になってそういわれてもという気がする。医学とはよく意見を買えるものだ。砂糖といえば、最近の糖質制限ブームもその一つ。10年前までは、話題にもならなかった糖分の制限が今ブームになっている。曰く、糖尿病、がん、認知症など、糖分は万病のもと、だそうだ。そういわれると気になり、ごはん少な目、お菓子は我慢という人も多いのではないか。

さて話は変わる。D カーネギー著の世界的ベストセラー、「人を動かす」(原題”How to get a friend and influence people”)は処世術の本として名高い。例えば、人との会話では自分がどんなにしゃべりたくても我慢して聞き役に回れ、とある。そのほうが相手に好意 を持たれるとのこと。これは真理である。竹下登元首相は人と話すとき徹底して聞き役に回った。「ほう、なるほど、さすが」としか言わなかった。竹下ファンが増 え、彼の元に多くの政治家が集まった。

聞き役を続け、還暦を過ぎるころから彼は無表情になった。まわりの人から、「竹下先生は何を考えているか解らないので恐ろしい」と言われた。人心が離れ始め、首相になってからの在位期間も短かった。

小泉純一郎元首相は晩年に花開いた人だ。若い頃から本音で人にぶつかってきた元首相は人から慕われるタイプではなく「変人」と言われ続けた。しか し、総理大臣になってからは思ったことをストレートに言葉に出すわかりやすさで国民の人気を博し、それまであまり親しくなかった政治家、例えば武部勤元自民党幹事長などは元首相が在任中忠誠を尽くした。

カーネギーの言う、「自分の本音は隠して相手に合わせよ」というアドバイスはあまり親しく無い人に対しては有効だ。仕事で知り合った取引先、そんな に近しくない同僚などには相手を喜ばせるカーネギー流は効果がある。しかし、長年つきあうであろう親友、家族、一蓮托生の仕事上のパートナーに対してはふさわしくない。本音を隠して表だけを取り繕っても早晩馬脚を現し、かえって相手に不信感をもたれる。

このことは正露丸に例えると良い。糖衣の正露丸(正露丸トーイ)は短時間ですぐ飲み込むから良いのであって、もし長い間なめてる飴なら、口の中で転がしているうちに苦みが出てくる。すると「お前は本当はそんなやつだったの か」と不信感が沸き起こる。長年つきあう相手には、素の正露丸の様に、「俺は苦いやつだけど体にはいいぞ」と素の自分でぶつかるに限る。年月を経る事に友情は厚くなるはずだ。

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みち草映画批評2「アナと雪の女王」~プロフェショナル 仕事の流儀

遅まきながらが「アナと雪の女王」を見た。よくできた映画と思って楽しんだが、どうも感動するとまではいかなかった。

ディズニーでは、脚本の時点で徹底的に調査、マーケティングをして、必勝のセオリーに則って映画を制作するらしい。東京工業大学の統計学の先生に監修を受けたという「面白い映画とつまらない映画の見分け方」という本がある。ヒットした映画の脚本を統計的に分析して、13の共通項を浮かび上がらせたという内容で、このセオリーに従った脚本の映画は面白いし興行的に失敗しないらしい。アナと雪の女王も当てはまっていた。思い出せば、私の好きな映画の一つ「ディナーラッシュ」もこのセオリーに照らして当てはまる。この映画は、料理人とレストランの話で、料理が趣味の私には二重に楽しめる。本のセオリーによれば、面白い映画で困難は二度来なければならず、一度目よりも深刻で、その困難には主人公が一人で立ち向かわなければならない。この映画で一度目の困難は親子の葛藤だが、二度目の困難はやくざ店を乗っ取られそうになるというもの。解決の仕方が意外で、爽快である。ご覧されたし。同じ料理人が主人公の映画「幸せのレシピ」は、セオリーの「主人公のピンチは2度なければならない。」から外れていて、そのせいか見終わった後、少し物足りない感じがした。

料理といえば、料理に使う道具も好きで、以前は東京下町の合羽橋によく行った。合羽橋はプロ用の食器、包丁、その他調理器具の店が立ち並ぶエリアで観光客にも人気だ。フランス人のシェフがよく合羽橋に立ち寄り業務用の包丁を買うそうだ。しかし、最近は合羽橋にはあまり行かなくなった。東京青山にある食器屋やデパートなどで開催される陶器市などに行って瀬戸物を買っている。包丁はたくさん持っていて妻にいつも叱られているが、彼女の目を盗んでは銀座の包丁屋で高価な高級品を買っては押入れに隠している。合羽橋には押し入れに隠すような高級品は無い。瀬戸物も、大量生産品しか置いていない。

友人を招いて家で料理を振る舞うのも大好きである。最近は中華料理を振る舞うが、独身の頃はフランス料理だった。当時スイス人の友人と彼の広い社宅でホームパーティをよく開いた。友人たちに声をかけ、友人たちも「誰に声をかけてもいいよ」といって人を集め、いつも50人くらいの人がやってきた。メニューを作り、材料を買いに行くのも楽しい。仕入れの買い物に行った時、よくそのスイス人の友人から「君は材料を買う時、値段を見ていない」と言われた。確かに自分で満足できる料理を作る為には、食材の値段には糸目をつけてはいなかった。選りすぐりの食器も外せない。もう店だったら、赤字だ。

選りすぐりの食器と言えば、若い頃テレビ局の経理部にいて、銀行に接待されたことがある。日本興業銀行(現;みずほコーポレート銀行)の青山寮というそこは、もともとは加賀藩の江戸屋敷だった所で、加賀藩の殿様が使っていた食器で懐石料理を出す。客は日本酒を飲む時には桶の中に入っている沢山のぐい飲みの中から好きなものを選べる。当時私は、少し大きめの茶碗のようなぐい飲みを選んで酒を飲もうとしたら、中居さんが「お客様がお使いになっている茶碗は、東京都の重要文化財です」と言われて、すっかり酒の味が分からなくなってしまった。

広大な敷地にあるその食事処は、いわゆる店では無い。というのも、そこは勘定書がない。また暖簾や看板も無い。品書きもなく客は出てくるものを食べる。そして、何しろ加賀藩の殿様が使っていた文化財級の食器で食事する。採算を度外視している。

このような場所はないものかと考えて、同じ匂いのする所が浮かんだ。一つはもちろん行ったことはないが、行ってみたかったところに北大路魯山人の「星岡茶寮」がある。当時各界の著名人から絶賛された店だったが、ここは結局、魯山人が料理や食器に凝りすぎて経営が行き詰まり、共同経営者の中村竹四郎から内容証明を送られて魯山人は追い出された。なんだか、デザインや完成度に凝りすぎ、周囲との諍いが絶えずにアップルを追い出されたスティーブジョブスみないだな、と思う。

もう一つは、オヒョイさんこと、俳優の藤村俊二さんが青山に開いた「オヒョイズ」で、内装は最初は多くのレストランを手掛けたプロが作ったが、オヒョイさんは満足せずに全部を取り壊して、自然に乾燥した木材をスコットランドから取り寄せて壁材にしたり、一枚板の欅をテーブルにしたりですっかり内装をやり直して店をオープンさせた。今は閉店したようだが、以前一回行ったことがある。内装は渋いとは思ったが、聞いていたほどには関心しなかった。あと、店員のサービスが今一つであった。一緒に行った飲食関係のコンサルタントの友人は「ここはきっと赤字だ。趣味でやっているだけで、プロの仕事ではない」と言っていた。

その「プロ」とはなんであろうか。答えを考えた時、テレビ番組NHKの「プロフェショナル 仕事の流儀」を思い出す。ラストシーンで、「あなたにとって、プロフェッショナルとは?」と番組が毎回のゲストに聞き、ゲストが自分の思いの丈を語る。大体、仕事を極める、という内容の表現が返ってくる。過去の放送を振り返ると下記のような答えが返ってきていた。

プロ曰く、プロとは、

「技術も心も伴った人。」

「常にベストな判断の出来る人。」

「素人が1000人集まっても一人の人に敵わないという、
圧倒的な力の差のある、技量ノウハウを持ったその一人の人。」

「自分を好きでいられる生き様を貫くこと。自分を偽らないこと。」

「明日のために仕事が出来る人。人のために仕事が出来る人。」

「揺るがないビジョンを持っている人。」

「自分が信じた道をまっすぐひたむきに歩く人。
本当に出来るのかと思った理想が形になる、それを目指して努力する人。」

「夢を描くことが出来、それを実現する力のある人。」

「失敗に失敗を重ねても、それを絶対に忘れないで、次につなげていく人。」

そしてある人はこう言ていた。
「技と情熱。」

確かにどれもカッコいい。で念のために広辞苑を引くと「プロフェッショナル」とは「職業的」とある。また、ロングマン現代英英辞典には、Someone who earns money by doing a job, sport, or activity that many other people do just for fun. (仕事やスポーツ他の活動を通じて、お金を稼ぐ人のことで、プロでない人はその事を楽しみの為に行う)とある。つまり、日米の定評のある辞書に書いてあるのは、「プロとはお金の為に活動を行う人の事で、楽しみの為に行う人ではない」とある。これは言葉の意味だけをシンプルにとれば、最高級のものを出しても赤字ならプロではない、ということになる。そう考えると楽しみの為に料理をふるまっていた私はもちろん、スコットランドから壁材を輸入したオヒョイさんや自分で食器を焼いた魯山人もプロではなかったということになる

仕事の流儀といえば、S・ジョブズの仕事の流儀は細部まで異常にこだわる姿勢だ。これはビジネスマンというより芸術家の姿勢で、金儲けの為にやっていたとは思えない。マイクロソフトの製品で感動した人を聞いたことが無いが、最初のマッキントッシュやiPhoneを見て感動した人は多いと思う。ジョブスもプロではなかったということか・・・。

「アナ雪」は辞書に照らし合わせて、プロの仕事である。芸術的に高いレベルとは少なくても私は思わないが、興行的に大成功し、莫大な利益をディズニーにもたらした。でも、生前ディズニーの筆頭株主だったジョブスが「アナ雪」をどう評価すのか・・・。

最後に私なりにプロフェッショナルを定義するとこうなる。「プロフェッショナルとは、顧客満足度を下げずに、コストを下げる(手を抜く)人」

 

 

 

 

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道草映画批評4「レヴェナント 蘇えりし者」

レオナルド・ディカプリオが主演でオスカーを取った。いい演技だ。19世紀、アメリカイエローストーン公園のあたりの冬の大自然が舞台。ディカプリオ演じるグラスが、クマに襲われてけ大怪我をする。クマに襲われるシーンは圧巻で、グリスリーの動きは本物にしか見えないし、ディカプリオも本当に襲われているようにしか見えない。怪我をした後の彼のサバイバル行程も本当みたいでよい。厳しい自然の中でのグラスの所作一つ一つは、持っている自然への造詣や積んできた経験を感じさせる。アウトドア好きの私は、見惚れてしまった。また、この映画は映像が美しい。どのシーンをとっても芸術写真のようである。

ただ、一点この映画で残念なところがある。ディカプリオ演じるグラスと彼の息子が全く似ていない。もちろん映画なので、似ていなくてよい。レイダーズで親子を演じた、ハリソンフォードとショーンコネリーは似ていない。でも、観る人は2人を親子として見る。二人とも同じ白人だし、まあ、年も近いが、親子と言えなくはない。レヴェナントでは、グラスの息子ホークはネイティブ・アメリカンの女性との間に生まれた混血の設定だ。しかし息子の役をした俳優の顔には白人の面影はなく、全くのアジア系の顔だ。養子の設定ならいいが、ネイティブ・アメリカンの娘と恋に落ちて生まれた子供というのが、この映画の設定で大切なところで、血がつながっているように見えなければ面白みは半減だ。気になったのはたったこの一点だけでだったが、この一点で私はこの映画のストーリーがどうも嘘くさく思えて、全体がなんだか白けて見えてしまった。

一点ですべてオジャンということは世の中に多い。中学生だったころ母から、「そんなに爪を伸ばしていたら、100年の恋も冷める。モテないよ」言われ慌てて詰めを切った。大人になって、付き合おうかと思っていた人と確か恵比寿のウエスティンホテルのバーに飲みに行って、カウンターに座り、彼女の顔を近くで観たら、少し鼻毛げ見えて、その瞬間急に幻滅して、その後付き合うのをやめてしまった。

爪は日ごろから清潔を心がけていれば伸びはしないし、鼻毛も美容に気遣っていれば鼻からはみ出たりしない。映画監督も細部にこだわって映画を撮り続けていたらそれが習い性になって、違和感のあるシーンとか辻褄が合わない場面を作ったりはしない。一見きっかけがことを起こしたように見えても、実はそのきっかけに至るまでに、ことが起こる準備は万端整っている。長年の怠慢の澱が、噴火寸前のマグマのようにたまっていて、マッチ一本で爆発するのだ。

コロナウィルスの感染拡大の経緯を予言したような映画、Sソーダバーグの「コンテイジョン」では、人類の危機はたった一人の感染から始まる。野生のコウモリのウイルスが家畜の豚に移り、その豚を料理した料理人からギゥィネスパストロウ演じるアメリカ人旅行者に移り彼女はシカゴで元彼と不倫して、死のウィルスが世界中広がっていく。現実のコロナウィルスの拡大を見るようだ。果たして、今現実に起きている危機は偶然なのであろうか?

サピエンス全史の著者ユヴァルノアハラリが彼の全著作を通じて力説しているのは、畜産は地球の支配者だと勘違いしたホモサピエンスのエゴであって、実は哺乳類の仲間である家畜達に大変な苦痛を与えているという事実だ。自然の生態系全体をみると極めて不自然である畜産を、もし人類がしていなければ、今回のコロナの流行は起きていない。この危機が示唆するのは、地球を長年我が物顔に凌辱し続けた、人類の傲慢が澱のようにたまりに溜まった所に神仏がお灸を据えたとも見える。

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道草映画批評3 「恋愛小説家」

オスカー映画「恋愛小説家」でジャックニコルソン扮する小説家は洗面台シンクの鏡の裏に未開封の石鹸を大量にストックしている。手を洗う時は鏡の裏から新しい石鹸を都度取り出し、洗い終わると、一回しか使っていない石鹸をゴミ箱にポイ。しかも、非常に頻繁に手を洗う。主人公は強迫性神経症を患っており、この病のよくある症状である清潔脅迫行為を繰り返している。

この病ではなぜ、頻繁に手を洗ったり、新しい石鹸を使ったりするかといえば、ジンクスに支配されているからだ。手を洗わないと、不幸がやってくるというジンクスが、なにかの拍子に患者の頭をよぎる。普通の人なら、さっき手を洗ったばかりで汚れていない、と考えるところ、患者は「手の汚れ=呪い」という風に感じて、呪いを洗い落とさなければ不幸がやってくると感じてしまい、洗わずにはいられない。

普通の人からみれば馬鹿げた話だ。このジンクスは迷信だと患者自身もわかっていることも少なくないが、安心を得るために洗い続ける。

恋愛小説家のもう一つのジンクスは、道路で舗装と舗装の境界線を踏むと不幸がやってくるというもので、彼は歩いていて境界線がやってくるたびにジャンプする。笑えるのは、彼の愛犬も強迫神経症を患っているらしく、境界線を見るとジャンプする。

ジンクスについて考えてみた。ジンクスとは一般に、あることをすることによって不幸を避けたり幸運を呼んだりするための儀式で、その儀式と幸運との間にはふつう科学的根拠がない。つまり迷信であることが多い。これにがんじがらめに縛れれているのが脅迫神経症者だ。しかしもしある行為とその結果との間に相関関係が証明されているなら、それはジンクスや迷信とは言わない。

古代アステカ人は生きた若い女性を生贄にするとトウモロコシが豊作になると信じて生贄儀式を行った。筆者の若いころ、勤務していた会社が社屋を新築し、神主さんを呼んで修祓式なるものを行った。経理部門にいた私は神社に収めた式の代金を見て驚いた。これも迷信か?そうなると七五三に子供を連れていくために大枚はたいて着物をしつらえる普通の親やおばあ様は多数派だが、外国人の目からみると、迷信と映るに違いない。

迷信は宗教行事などに限らない。一見相関関係があると思われていることが、調べてみると相関関係がないことがわかったりする。私は、子供のころ毎日牛乳を3本飲んでいた。私の身長が高くなったのを見た、身長の低い親は「お前は牛乳のおかげで身長が伸びた」といっていた。調べてみると、牛乳の摂取と身長には相関関係はない。

では、「容姿と幸福な結婚生活」、「お金と幸せ」、「肉体的な障害と幸福」、「学歴と成功」、などはどうだろう。一昔前の世論では、相関関係があると信じられていたが、最近ではそんなに信じられていないような感じもする。常識であったものが徐々に迷信に変化していった事例かもしれない。難しい問題としては、「人種と成功」、「性別と成功」、「親の階級を子供の階級」などが挙げられる。できるなら、こういうことは迷信と言いたいが現実の相関関係はどうなのだろう。

「努力と幸せ」、「善行と充実」、「利他の心と安心」はなどは信じたい。「行為自体」と「結果」の間には相関関係があるかないかは、証明が困難かもしれない。しかし「行為の過程」と「果実」との間には相関関係があることは説明できる。努力していれば、結果にかかわらず、努力自体が充実感をもたらすし、利他的な行為はそれだけで心に安心感をもたらす。

ジャックニコルソン演じる恋愛小説家は、ヘレンハント演じる恋人と出会い、彼女を口説く一瞬一瞬に意識が向いて、ジンクスや脅迫行為から解放されていく。彼の意識が、幸福という目的から解放され、一瞬一瞬のプロセスにシフトしていって、図らずも幸福を手に入れるというこの映画は、幸福の神髄を語っていて、オスカーにふさわしい。

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キャラメルは味わって・・・。

父はよく、若くしてくも膜下出血に倒れて、最後は寝たきりになって死んだ母の人生を、残念な人生だと言っていた。

 

結婚前、父は北海道では大手の木材会社で、帳場(伐採現場の会計係)として働いていた。今でいえば大手に努める安定したサラリーマンだ。母は、電話局の交換手をしていて、見合い結婚だった。サラリーマンと結婚したつもりの母であったが、外材輸入の時代になり、父は脱サラを余儀なくされて予定が狂った。父は母の義兄にお金を借りて、食堂を始めた。食堂は、ふつう夫婦でともに働く。専業主婦にはなれずに、図らずして女将さんになってしまった。近隣に大学、電電公社の研修施設、郵政省の寮などがあり、お店には学生さんが良く来てくれたようだ。母は明るい性格で、素人が始めた食堂であったが、味ではなく人柄に客が付いた。何年か経って、はす向かいに2フロアの店舗を借りて、昼は一階で食堂、夜は二階で居酒屋を始めた。当時居酒屋というコンセプトはなく、かなり成功して地域では最も繁盛した店になった。

母は、妻として、母として、そしてなにより女将として一人三役をこなし、早朝から深夜まで働き詰めの毎日であった。母の毎日は、朝は息子である私の弁当を作り、その後店の仕込みを行い、ランチ営業、よるは居酒屋営業で店がおわるのは23:30、それから帰宅して、25時ころ床に就く毎日であった。休みといえば、第一第三日曜と月に2日しかなく、その休日も会計帳簿とにらめっこしている母、おまけにPTAの会長も務める母を私は子供心に、すごいと感じていた。母がもし専業主婦として、暇な毎日を暮らしていたなら、私はここまで尊敬はできなかったであろう。

母は倒れるころには、居酒屋の女将という仕事がらか、酒量が増えた。アル中であったようだ。クモ膜下の誘因であった。それを見ていたせいか、私はアルコール依存症が怖く、最近はもっぱらノンアルコールビールである。睡眠障害もあるので、コーヒーはカフェインレスを飲んでいる。酔うためにビールを飲み、しゃきっとする為にコーヒーを飲むのに、肝心のアルコールやカフェインがないものを飲むのは意味がないと、酒好き、たばこ好きの会計士の友人によく言われる。しかし、飲む行為自体が楽しいのであって、結果として酔ったり、しゃきっとしたりは結果論であるので、飲むプロセスを楽しめれば十分だと思う。これは、私の趣味のフライフィッシングのキャッチアンドリリースに似ている。魚を捕るのが釣りであるが、釣り上げた魚を逃がすということは、獲物を捕るという目的よりもそのプロセスが楽しいということだ。

話を元に戻すと、父は、母が晩年ゆっくりと遊びながら暮らしてほしいと思っていたらしく、身を粉にして働いて、体を壊し、せっかくの晩年を寝たきりで過ごし、60代前半で死んだ母の人生を、残念な人生であった繰り返し言っていて、私もそう思っていた。

しかし、ノンアルコールビールやディカフェ、キャッチアンドリリースで満足できることを知り、最近考えが変わった。同じことを人生に当てはめると、人生は、晩年に果実を得ることに意義があるのではなく、果実を得るためにプロセスに真摯に取り組むことにこそ意義と喜びがあると思うようになった。晩年に、果実を得られるかどうかは、いわばオマケであって、人生の真骨頂ではない。

母は、晩年少し残念であったかもしれない。しかし、それはキャラメルのオマケをもらえなかったというだけで、キャラメルしっかりもらえていた。そしてそれは、とっても美味なキャラメルであったと私は知っている。

世間では、オマケで釣ってキャラメルを買わせる輩もいる。無意味な遠い将来の不安をあおり、死後に思いをはせさせ、目前の幸不幸に麻酔をかけるような、エセ宗教には注意しなければならない。

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買う喜び

今から30年近く前になるが、初代レッツノートを買った。その前はマックのノートを使っていた。当時は確か、会社で使うためにウィンドウズを買おうとおもって持ち運びやすいパソコンを探したらレッツノートだった。当時23万円くらいして高価と思った。しかし、半年くらいして、「買うときには迷ったが、この買い物はよかった。買い物とはこうあるべきだ。」と感じたのを覚えている。

満足度が高かった理由は、レッツノート自体が良かったのもあるが、それを仕事で大いに使って、私生活でも予想外に使って、つまり使い倒すことが出来たことにあった。たまに浮気もして、MACのノートを買ったりしたが、結局レッツノートに戻っている。このブログもレッツノートで書いて、初代以来確か6台目になる。

レッツノートはMACに比べて、買うときの興奮は少ない。MACはデザインも良く、カルチャーを感じさせて、買う時に喜びが溢れる。レッツノートは実用一点張りで、どうしてもこれが欲しいと思って買うことはまずない。パソコンが古くなったからそろそろ買おうかな、と思って買うのである。でも使っていると満足度がしみじみ出てくる。

 

買う喜びとは何であろうか?知り合いに村上さんという70代の女性がいる。この人はある種の買い物依存症で、テレビの通販を見ては、つい買い物をしてしまい、家の中が未開封の家電であふれている。彼女はいったい何のために買っているのだろう。未開封なのだから買った後には使っていない。本人に聞いてみると、買う時には、その製品を使って幸せになっている自分を期待して買うのだそうだ。

実はこの期待というのが曲者で、期待には中毒性があると、心理学者でベストセラー作家のケリー・マクゴニコルは著書「ウィルパワー」で述べている。人は快楽や幸せの中毒にはならないが、快楽や幸せの期待には中毒になるらしい。ネズミの実験で電極を脳の「期待」を感じる部位につけられ、スイッチを押すと電流が流れる仕掛けでは、ネズミは餌も取らずに電極を押し続けた。ゲーム中毒患者はもう少しゲームを続けると、新しいポイントがもらえるかもしれないという期待に逆らうことが出来ずに、ゲーム中毒になっていくらしい。

「期待」でものを買う時は、その服を着て周りから羨望の目で見られる自分を「期待」して高価な服を買う。そのヨットと一緒の充実した週末を「期待」して高価な船を買う。ロレックスの時計をして、重要な仕事をこなしている自分を期待して高価な時計を買う。でも、買った後は、せっかく買ったベルサーチの服はタイトで着心地が悪かったり、ヨットに乗るのは、年に4回(チャーターしたほうが安い!)だったり、ロレックスよりアップルウォッチが断然便利と高価なGMOマスターは机の中、という人は多い。

実用に焦点を当てて、買い物をすれば、欲望で財布が軽くなったり、買ったあとに自己嫌悪になったりせずに済む。私は、節約したいと思い、数年前から実用性でものを買うことにして、気が付いてみると身の回りの品物がすべて実用的なものになり、そのライフスタイルに知的なカッコよさを感じて満悦になったりしている。

 

しかしある時、この実用品に囲まれたカッコいいライフスタイルの強化を期待して、必要のない実用的なものを買って、ハッとした。ミイラ取りがミイラになった瞬間であった。期待の心に抗うのは、難しい。

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仙台の医者殺し

この間鏡を見ていたら、前歯に黒い虫歯が見えて、慌てて行きつけの歯医者さんに行った。その少し前、友人の脳神経内科の先生から、口内環境が悪いと認知症になりやすいという歯と脳の相関関係について聞いていたので、「虫歯は治療しなければ」と思って意気込んで受診した。一回目治療日の翌日、NHKEテレで私の好きな医療番組である「チョイス」にチャンネルを合わせたら、たまたま歯の治療についての回だったので、これも意気込んで観た。勉強になった。歯周病に関しては知っていたつもりだったが、歯垢だけではなく歯石にも菌が大量に菌が住み着いていて、歯石を除去しないとそこから歯周ポケットが広まり歯が抜けるらしい。怖い。歯磨きが大切らしく歯の垢をとるだけではなく、歯石を予防するための歯磨きテクニックについて番組で丁寧に説明していた。

二回目の治療の後、かかりつけの先生に歯の磨き方について聞いてみた。丁寧に教えてくれたて、歯ブラシの持ち方について新しい情報を得た。鉛筆を持つように握り、力はあまり入れないのがコツとのこと。しかし、虫歯になったから歯医者に行ったのであって、虫歯にならなかったら、歯医者にはいかずに歯の磨き方も教えてもらえなかったということになる。

歯の磨き方というのは、予防医学というカテゴリーに入るのだろうが、予防医学というのはあまり普及しないと嘆いていた知人がいる。この人は、企業の健康保険組合に医療費削減のためのコンサルテーションを行っている人で、特に糖尿病を予防する為の生活指導では実績のある人だった。この人は医師ではなかった。なぜ医師ではない人が予防医学の普及活動をしているのかと聞いたところ、「医師は患者数が減ると収入も減る。加えて生活指導は点数も低く積極的にはやりたがらない」と言っていた。思わず合点してしまった。そういえば、かかりつけの耳鼻科の医院で鼻の洗浄器具を購入したときに、同じ診察室にいた別の患者さんが「こんなものが普及したら、先生の患者が減ってしまいますね」と憎まれ口をたたいていたのを思い出した。仙台の医者殺しという言葉がある。伊達政宗が臣下の健康のためみその生産に力を入れたことに由来している。みそは材料である大豆そのものが良質なたんぱく質や脂質、糖分、ビタミン、ミネラルなど含む、栄養豊富な食品で、そこに発酵という多種多様な微生物が多くの栄養成分を生産する工程が加わり、健康増進に役立っている。

歯磨きの方法や糖尿病にならない生活指導はなどは、ある種の教育活動で、つまり情報の供与である。現代はネットに様々な医療情報があふれているので、あえて医師に聞かずとも無料で簡便に情報が手に入る。このことも医師が予防医療に積極的にならない後押ししている。

しかし俯瞰的にみると、医術の神髄は診察と診断にありこれは情報の分析と情報の供与に他ならない。薬の処方は医師の特権で、点数も高いが、薬の調剤が外部の薬局に切り出されていることを考えると、薬の処方は医師という職業のレゾンデートルではないはずだ。

さて、歴史学者で「サピエンス全史」著者のユヴァル・ノア・ハラリによると、現代で最も発達しそうな化学分野はAIとバイオテクノロジーだそうだ。で、AIにとってかわられる職業が紹介されているが、医師もその一つらしい。考えてみると、医師のコアバリューが情報分析だとすれば、それは正にAIの得意分野だ。近い将来、プライマリー医療(地域のかかりつけ医)が医師から看護師などに代わり、AIが東京などに居る医師の監督のもと診断を下し薬を処方するという近未来図は現実味を帯びている。もしかしたら、監督の医師もいらないかもしれない。

さて、このような時代を目前に医師はどのような生き残り戦略をとるべきか。AIにとって代わることができないと思われるサービスに「ぬくもりのあるコミュニケーション」が考えられる。患者の弱音に耳を傾け、慈愛に満ちた助言をするのだ。そうなると、流行る医師のスキルは、悩む主婦の懺悔を聞く牧師や仕事のうっ憤がたまったサラリーマンの愚痴を聞くキャバクラ嬢のスキルと重なってくる。

しかし、AIがさらに進歩するとこの分野も取って代わられるかもしれない。次世代の医者殺しの犯人は味噌からAIにバトンタッチされつつある。

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善を行うということ

種としての繁栄のために、その種を構成する個々の個体がどう振る舞うべきかは、習性という名前が付いている。オシドリのつがいが添い遂げるのは、それが倫理的だからではなく、種の繁栄のためにはつがいで責任ももって卵を守るのが有利だからである。一方、責任放棄ともいえる、托卵をするカッコウなどは倫理的にけしからんと言ってもそれは詮なき言いがかりであって、それもまた種の繁栄のための戦略である。いや、むしろカッコウやモズたちに神様がいたならその神様はきっと信者の鳥たちに「卵を預けて、他の鳥に育ててもらうのは神の意思に沿っている」教えているはずである。

 

さてオシドリのつがいが添い遂げると言うような「生きていく時の行動指針」つまり種繁栄のための戦略は、どの生物にも見られる。バッタのメスはオスを殺して食べる。阿部定は非難され丙午は忌諱されているが、バッタ界では夫殺しは推奨されているはずだ。皇帝ペンギンのオスは厳寒の冬の間中、絶食しながら卵をあたため、餓死寸前のところで、最後の栄養を生まれたての子供に与える。妻のペンギンが夫を探しあてると、子供を母親に託して命からがら、餌を探しにいく。人間の夫でここまで、献身的な人は少ないのではないか。

 

われわれ人間が“倫理”とか“道徳”とか呼んでいるものも、もともとは種繁栄のための戦略であった。種繁栄とは、具体的には衣食住を満たすこととほぼ同義と言えるし、衣食住を満たすということは、経済を繁栄させるということとやはり同義である。こう考えると、種繁栄=経済繁栄のための戦略が、形を変えて倫理とか道徳とか呼ばれるようになった訳で、普段われわれが思っているように、教え自体に意義があり、ある種の宇宙の心理などでは無いように思われる。

 

倫理や道徳はわかりやすい。ある行動が数理的に考えて自分たちの種繁栄の為に有利である、行動のたびにといちいち判断出来る人はほとんどいない。何かをしようとする時、もしくはしないと決める時、倫理、道徳もしくは宗教の教えに照らして決めたほうが、その行動は定着する。

 

イギリスの生科学者学者リー・クローニンは、宇宙においてあらゆる物質は存在する目的があり拡大する為に進化していくと考えている。生物は自己複製で拡大する。コピーを増やすことが生物の繁栄なら、クローニンによればそれは宇宙の意思である。こう考えると、倫理という名においてとった人間の行動は、結果的に自己複製のための合理的行動であり、これは宇宙の意思に沿っていることになる。宇宙の意思を神の意思と換言すれば、つまり「倫理的行動は神の意思」と言えて、古来からの教えはあながち真理から外れてはいなかった、と言うことになる。

 

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恋愛結婚か見合い結婚か?

国立社会保障人口問題研究所の調べでは、現在の見合い結婚の比率は5.5%。戦前7割を超えていたのが、60年代後半に逆転し今はほとんどが恋愛結婚のようだ。

 

歴史的にみると、どの国でも古くは見合い結婚がほとんどでようだ。お隣の韓国では、同じ氏族の中では結婚は許されなかったようで、つまり同じ苗字の人とははなから結婚できない訳だ。同じ苗字と言っても、韓国で苗字は極端に少ないし、昔は同じ地域に住む人はほとんど同じ苗字だったようなので、同じ地域に住む人とは結婚できない、ということだった。同じ地域に住むひと同士で結婚できないので、当然遠隔地に住む違う氏族の親同士が話し合って結婚を決めていて当然見合い結婚だった。これは、結婚とは、違う地域に住む氏族同士が血縁になって平和への一助となる社会行為であったと換言できる。日本でもテレビ時代劇をみると、武家の婚礼は家と家が縁を結ぶためのもので、つまり見合い(政略)結婚がほとんどだと思われる。

 

韓国の新興キリスト教である、世界統一協会は国際政略結婚とも言える、教祖が決めた相手と国際結婚するというルールで世界平和や社会平和を実現することを旨としているが、韓国伝統の考え方に基づいているのではないか。

 

ではさらに古く遡って農耕が始まる前の狩猟時代はどうだったを考えてみると、少し前までは原始乱婚という、出会い頭に生殖を行うような社会であったと思われていたが、最近の研究ではどうもそうではなさそうで、むしろ今より厳格なルールがあったことが最近の定説だ。

 

民族学者で哲学者のレヴィストロースは狩猟時代の社会システムが残るブラジル奥地に住む先住民族のインディオ社会に潜入し、そこでの結婚に関するしきたりを研究した。この研究は後に世界的にもっとも影響力を持つ思想である「構造主義」の契機になる。この時の経験を書いた彼の著作「悲しき熱帯」は世界的ベストセラーになった。

 

レヴィストロースは見合い結婚(=政略結婚≒親族の成り立ち)を研究することによって、その社会の構図を明かにした。結論から先に言えば、「女性は部族間の贈り物であった」とストロースは発見した。(これは歴史社会学の結論で、女性蔑視ではありません)。こう考えるとそれまで説明がつかなかった世界的に見られる同じ氏族内での結婚忌諱(広い意味でのインセント(近親婚)タブー)が全て説明がついた。(くわしく知りたい人は、橋爪大三郎の「初めての構造主義」や小田亮の「レヴィストロース入門」を読んでください。)

 

さて、「見合い結婚」が部族間の平和の礎であったことを考えると、現代に於いては、同じ国内での諍いは司法や行政の力で抑えられているので、必要なく憲法にあるように本人どうしの合意で結婚できるということになって、94.5%が恋愛結婚という時代が来たよだ。

 

しかし、この恋愛結婚であるが、厳密な意味で恋愛結婚と言えるのだろうか?憲法では本人どうしの合意で結婚できるとあるが、恋愛結婚で結婚できるとは書いていない。本人どうしの見合い結婚という事は一見内容に見えるが、見合い結婚を政略結婚と読み替えると、本人どうしの政略結婚というのは案外多いような気がする。

 

最近デヴィ夫人の著作を立ち読みしたが、その本に「年収に二億でそんなに惹かれない男と年収200万円で惹かれる男をどちらと結婚すべきか」という章があった。女性の皆さん、あなたはどちら?

 

現代でも女性が贈り物だとすれば、現代における見合い(=政略≒打算)結婚を選ぶ人は、自分という贈り物を誰に送るか、ということになる。デヴィ夫人は年収に二億の男と結婚せよ、といっている。何しろ自分がインドネシア大統領の第三夫人になったひとだものね。

 

ジェンダーとしてのメスは、より多くの自分の遺伝子を残す戦略として、なるべく質のよい遺伝子を残すという遺伝子選択の戦略と、出産後に安全に育児できるかという安全性確保の戦略とのバランスでオスを選んでいる。オスは単純なもので、より多くのメスに自分の遺伝子を残すのが戦略である。

 

人間の例を考えると、女性は一年に一回しか妊娠出来ず、さらに出産しても15年以上育児に費やさなければならないので、大変なリスクを負っている。出産後の安全性確保ゆういの種と言える。

 

さて、見合い結婚と恋愛結婚に話を戻すと、自分自身を贈り物として政略的に結婚するつまり、よく言われる高学歴、高収入の男性と結婚するのは一種の政略結婚(=見合い結婚)とくくり、純粋に惚れた男と結婚するのを恋愛結婚と定義し直せば、世の8割くらいが見合い結婚といえるのではないか?

 

さて、あなたはどちら?

 

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人間は幸福を手にすることが出来るのか?

最大多数の最大幸福という言葉がある。一人でも多くの人に少しでも多くの幸福をもたらす政治が良いという考え方だ。この考え方の裏には「幸福を追い求めるのは良い」という世間常識がある。

 

最近「幸福は追い求めるべきものなのか?」と疑問を持つようになった。幸福とは考えてみると、生か死か、とか奇数か偶数かようなゼロイチの問題ではなく、「幸福度」という言葉に度がつくことから解るように、温度や高度と同じように程度問題である。温度はどこからが冷たいのかどこからが熱いのかは人によって違うし、高度もどこからが高いのかは相対的だ。同じようにどこからが幸福なのか、どこからが不幸なのかは人によっても状況によっても違うし、この線引きは難しい。

 

程度問題なので幸福を求めはじめると、もっともっととなる。お金ももっと欲しいし、もっと良い家族が欲しいし、もっと広い家に住みたいし、もっと社会貢献もしたい、もっと認められたいとなる。

 

このようなことをすべて手に入れたであろう大富豪のロックフェラーは、晩年癌になり「もし癌直してくれる医者がいたら自分の財産の半分を寄進する」と言いながら死んでいった。

すべてを手に入れても、永遠の命が欲しい、年は取りたくない、病気も嫌である、となる。

 

筆者は若いころ神経質という病に苦しんだが、これは完璧な幸福を希求し、日常生活で身動きが出来なる病である。例えば少しでも幸福を得ようと、ジンクスや迷信が頭から離れなくなり、死を思わせる数字の4や苦労を思わせる数字の9を避けるあまり、本を読めなくなったり、外出できなくなったりした。体のどこかに違和感があると、癌ではないかと気に病み、必要もないレントゲン検査を繰り返し受けたりした。

 

宗教は人間が生まれながらにして持つ「幸福の欠如感」をいろいろな角度からアプローチする。シタールダ(釈迦)は、人間は「生病老死」と生まれながらに苦しい宿命を持っているので、瞑想に励み、このような苦しみが気にならない脳を得て、苦しい輪廻の輪(生まれ変わり)から抜出ることが出来るとした。イエスは、神を信じてよい行いに励むと最後の審判の時に生き返って天国に行ける。しかしこれは考えてみると、釈迦もキリストもこの世では幸せになれないと教えているようなものだ。

 

人類に多大な恩恵を与えた世界宗教が「真の幸せはこの世ではあきらめよ」と言っているのに世間では「幸福を追求するのは良い事だ」と思っていることになる。

 

疑問を一つ。これらの宗教を信じた人々は「所詮この世では不幸だ」と厭世主義になってもよさそうなものだが、実はそうではなかった。例えばアメリカの基礎を作ったピューリタンと呼ばれたキリスト教徒達は、「自分たちは神に選ばれて死後天国に行けることが約束されているのだから、神の期待に応えて、勤勉に働かなければならない」として、一所懸命働き世界をリードする国を作った。仏教徒たちも悟りを目指し、善い行いに励んだ。インド建国の父ガンディも現首相のモティ首相も敬虔なヒンズー教徒だ。

 

敬虔なキリスト教徒達、仏教徒たち、イスラム教徒たちは多分、現世での幸福を追い求めるのとはべつの動機で、現世で一所懸命生きてきたに違いない。この一所懸命が実はミソで、懸命に生きると、高尚な悩みを思い煩っている暇が無い。世の宗教は信者に忙しい日常を求める。あわただしい毎日を送っているうちに、気が付いたら死んでいた、という人生を送ることが出来る。最近、筆者はこれが幸福な人生ではないかと思っている。

 

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ソシュール理論による外国語学習法

英語が全く駄目だった筆者が言語学者であるソシュールにヒントを得て生み出した2年でTOEIC900点をめざせる全く新しいアプローチの外国語取得方法を紹介します。

髪林孝司プロフィール

髪林孝司

髪林孝司:
システム経営コンサルタント
職歴:
株式会社リクルート
(住宅情報事業部)
株式会社テレビ東京
(経理部、営業部、国際営業部、編成部、マーケティング部、イ ンターネット部などを歴任)

2001年
テレビ東京ブロードバンド企画設立
代表取締役社長就任
(主要株主;テレビ東 京、NTT東日本、シャープ、NECインターチャネル、集英社、角川ホールディングス、 小学館プロダクション、DoCoMoドットコム、ボーダフォン)

2005年
同社東証マザーズ上場

2006年
インターエフエム買収
代表取締役社長就任(兼任)
11年連続赤字累損22億の会 社を1年で4000万弱の黒字会社にターンアラウンド

2008年6月
テレビ東京ブロードバンド取締役退任

趣味:
ロードバイク
中華料理(家族の食事は私が作っています)
タブラ(インドの打楽器)