システム経営BLOG

谷田の婆さんは不幸だったのか?

父は昔、90歳を超えてかも、毎日忙しくしていた。ゴミ出し、洗濯に始まり、掃除は徹底していて、近所の人に掃除を推奨して煙たがられている。年を考えて少し休めばいいのにと思ったものだ。

 

その父がよく、昔話をした。これが結構おもしろかった。ある時、「谷田さんの婆さんは苦労した」という話を聞いた。谷田さんの婆さんは、親父の母方の叔母さんだ。私からみれば、祖母の妹で大叔母。この人のことはよく覚えているが、祖母によく似ていて、祖母が死んだ後も、この人を見るたび祖母を思い出し懐かしい感じがした。

 

谷田の婆さんは、乳母日傘で育てられたいいところのお嬢さんだった。兼業農家で食堂も営む谷田さんのところに30半ばを超え嫁いだ。谷田の婆さんの夫、谷田の爺さんは谷田の婆さんと結構する前、婆さんの姉と結構していて死別した。つまり谷田の爺さんは先妻の妹と結婚したわけだ。

 

姑はかなり厳しい人だったそうで、谷田の婆さんは嫁時代に完成度の高い家事を仕込まれ、四六時中姑に叱られていたそうだ。谷田の爺さんは食堂を経営していたので、畑は婆さんが一人で切り盛りし、同時に血筋で見ると自分の甥たちを息子として育てた。厳しい人生だったに違いない。

 

苦労はしたのだろうが私が覚えている谷田の婆さんは、文字通り婆さんでその顔はいつも穏やかで微笑んでいた。

 

ゴータマシ―タールダ(釈迦)は、王子だった。父親の王は何不自由ない生活をさせていたと伝えられている。何でも欲しいものは手に入り、おいしい食事、美しい妻と可愛い息子に恵まれ、上げ膳据え膳であったに違いない。

 

筆者も釈迦とは比べようもないが、両親のおかげで子供の頃は何不自由ない生活を送った。青春期も欲しいものはなんでも手に入り、日常の不自由は全くなかった。日常に悩みがなくなると人間悩みを探すもので、当時、人間は死んだらどうなるのか?とか、病気になるのではないか?とか、人に危害を加えてしまうのではないかとか、そのうち、手を洗わないと汚いのではないかと2時間も3時間も手を洗ったり、風呂に一日5回も6回も入ったりして、どうにもこうにもにも、身動きが取れなくなり、都立松沢病院の精神科に行ったら、脅迫神経症と診断され、森田療法がいいと勧められ、鈴木知準先生を紹介され治療をうけることになった。

 

治療は主に農作業、炊事、洗濯、風呂焚き、買い物など雑用を徹底的にしかも完成度高くやらされる。ミスをすると先生に叱られるので、必死に薔薇や朝顔の世話をしたり、集中して薪木で風呂をたいたりした。あとで知ったが、禅寺でも作務といって同じようなことをするらしい。

 

入院して1か月ほどすると、日常の忙しさに集中している自分がいて、高尚な悩みはどこかへ飛んで行ってしまった。それどころか、畑仕事や炊事を懸命にしていると、カタルシスさえ感じた。

 

日常に不自由なく、悩んでいたときの自分は出家まえの釈迦に相通じるところがあり、入院中の自分は不自由ない暮らしを捨てて修行に励んだ釈迦に似ている。そして、はっと気づいたのは入院生活は谷田の婆さんの暮らしに似ていた。

 

やることが無いというのはつらい。哲学者のカントの寝室の天井には「ここで考え事をするべからず」と大きく書いてあったどうだ。彼は、寝室での退屈をおそれ、朝布団に長居せず早朝に飛び起き、散歩にでかけ、一日中にひっきりなしに歩き回っていた。イギリスの思想家B・ラッセルは、「仕事のについて」という随筆の中で、「仕事から得られる最も大きな恩恵は、時間を潰せることである」と述べている。東洋でも中国古典、四書五教の一つ「大学」には、「小人閑居して、不善をなす」とある。「凡人、暇をしているとろくなことをしない」という意味である。

確か柳葉敏郎と石野真子主演の近未来SFドラマがであったと思うが、核戦争後の世界が舞台。生き残った人は放射能のまん延する廃墟に囲まれ、外出もままならず、時間を持て余しながら保存食を食べている。

 

そんな中自分の財産の半分を支払ってリアルで幸福な夢を見させるというサービスがあり、主人公の柳葉敏郎はサービスを受けることにして、その会社の部屋で注射を打たれる。そして、目を開けると石野真子扮する妻がいて、何やら慌てている。娘が肺炎で死にそうだとの事。深夜に必死に車を飛ばして病院を駆けまわるがどこも受け入れてくれない。やっとの思いで娘を入院させて、朝になると、家に借金取りが押し寄せてくる。経営している会社が倒産寸前なのだ。そうこうしているうちに自分が癌になって5年生存率は50%と言われる。癌を抱えながら会社立て直しの為に銀行をはいずり回り、借金を無心するが断られ続けたところで目が覚める。

 

核戦争後の現実の世界に戻った主人公はひとこと、「とても幸せな夢でした。」見ていて納得してしまった。谷田の婆さんもさぞ幸せだったに違いない。親父が齢90歳にして毎日忙しくしている理由がわかった。

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パンドラの箱

ベストセラーの自己啓発書「スタンフォードの自分を変える教室」ケリー・マクゴニコル著 原題「Will Power」は意志力に関する本だ。その中に面白い話が出てくる。実験用ラットの脳で快感を感じる部位に電極をつなぐ。レバーを押すとネズミは自分で電流を流すことができる。レバーの足元には熱いシートが強いてあって長居すると足を火傷する仕組みになっている。実験の結果、ネズミは足が焦げてもレバーを押し続けた。

 

同じ実験を人間にも行った。発作性睡眠障害の患者で突然眠りだす患者に電極をつけて眠らないようにする実験だ。この患者はスイッチを押して、自己刺激を与えたときのことを「 頻繁に、そして時には狂ったようにボタンを押した」にもかかわらず、「もう少しで満足感が得られそうな気がした」が、「とうとう最後まで満足感はえられたかった」そうだ。自己刺激を与えても焦るばかりで少しも楽しくはなかったのだ。この人の行動は快感を覚えているというよりは何かに突き動かされているようであったとのこと。

 

その後よくよく調べると、その脳の部位は実は快感や幸福を感じる部分ではなく、快感や幸福を予感させる部位であった。ラットの実験でも刺激を与えた脳の部位は報酬系と呼ばれる場所で、多分ラットは「もう一度やれ、今度こそ気持ちよくなるぞ」とレバーを押し続けていたに違いない。

 

表題のパンドラの箱のパンはギリシャ語で全部の意味でパンドラは「全ての贈り物」という意味だ。お話は、プロメテウスが天界から火を盗んで、人類に与えた事を怒ったゼウスは、すべての災いが詰まったと箱と共に人類で初めての女性であるパンドラをプロメテウスの弟エピメーテウスに送った。プロメテウスはゼウスからの贈り物は受け取るなと言ったが、美しいパンドラを見たエピメーテウスはパンドラを結婚する。パンドラは箱を持たされた時に開けてはいけないと言われていたが、好奇心に負けて、開いてしまう。そうするとあらゆる災いが人類に飛び出てきて、人間は苦しむことになったが、最後にエピルス(希望、期待)が出てくる。寓話のメッセージは「災に満ちりつのが人生だが、幸福への期待があるから生きていける」と言うことらしい。

 

この話はラットの実験と相通じるものがある。仮に、災いで満ちた人生をラットの熱シートと、幸福への期待は電極レバーだと置き換えれば、人生とは幸福への期待があるから足が焦げながらも生きていく、つまり「もう少し生きて居よう。今までつらい人生だったが、きっといつか幸せになれる」という希望をのみをたよりに生きていくに事なる。虚無的で悲しい考え方かもしれないが、内心同感する人も少なくないのではないだろうか。

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日本にキリスト教徒が少ないのはなぜか?

最近歳をとって来たせいか宗教に興味がでてきていろいろ勉強を始めた。とは言ってもいろいろな宗教をネットで検索したり、本を読んだり、宗教に詳しい友人の話を聞いたりしている程度でたいしたことはない。そんな中最近、疑問が出てきた。

熱心に信仰しているとは言い難い人が多いとは思うが、日本には仏教徒が多い。平成29年度版「文化庁宗教年鑑」を見ると仏教徒の数は8770万2069人で人口の48.1%%とある。次が神道で8473万9669人、人口の46.5%。キリスト教はというと日本では人口のわずか1%でこれは世界的に異例だ。例えば世界全体を見るとキリスト教はまさに世界宗教で、世界人口の33%と言れているし、先進国では日本以外は全てキリスト教国だ

では、なぜ日本ではキリスト教徒が少ないのであろうか?確かに、秀吉に始まり、徳川幕府もキリスト教を弾圧して来たが、これが原因とも言い難い。例えば韓国では近代になってキリスト教徒は増え、今では人口の30%にのぼるし、共産主義国の中国でさえ人口の10%だ。日本では明治維新後、信仰の自由の時代になってもキリスト教徒増えてはいない。何故なのだろうか?

話は仏教に飛ぶ。アショカ王の時代に一世を風靡した仏教が発祥の地でインドでは廃れてしまった。諸説あるようだが、もともとインドではバラモン教も仏教もインテリ層にしか理解されておらず、大衆は(特に南部は)土着宗教を信じていた。バラモン教は腐敗などで支持を失いそうになり、自変容革しながら土着宗教を取り入れるなど大衆化(分かりやすい)路線を歩みはじめて、ヒンドゥー教としてにインド全土に定着した。

王族やその支持層にのみ信仰されていた仏教は、イスラム教が入ってきて、庇護者であったインドの支配階級が駆逐されると支持基盤を失なった。結果インドでは、民衆に根を下ろしていたヒンドゥー教と新しい支配者の宗教でしかも分かりやすいイスラム教が残った。

何故仏教が日本や南アジアなどで信仰されているかといえば、それはインテリ向けの原始仏教が難解だということで、誰にでもわかる大乗仏教や密教がインドで生まれ、インドでの布教に苦戦した僧侶たちが海を渡って、他宗教に席巻されていない地域に伝えた。大衆仏教が広まった国では、イスラム教やキリスト教、ヒンドゥーが未到来の地域であった。

ここで宗教伝播のキーワードが出てきた。「分かりやすさ」と「先行者有利」ということだ。

冒頭の疑問に戻ると、日本にキリスト教が伝来したのは歴史の教科書に書いてある、1549年フランシスコザビエルによるもので、かなり遅い。日本で檀家が最も多い、浄土真宗の開祖、親鸞が生まれたのが1173年。

同じ時期のアメリカ大陸。コロンブスがアメリカ大陸にたどり着いたのが1494年。北米、南米でキリスト教が一気に広まったのは先行する大衆宗教がなかったせいに思える。

ところで、日本の最大宗門、浄土真宗の教えは「念仏を唱えると、誰もが極楽浄土に行き、成仏できる」と教える。ウーム、一見、どこかで聞き覚えがある。これは「神を信じると、天国に行って永遠の生命をもらって幸せに暮らせる」というキリスト教の教えに似ている。

釈迦の時代の仏教は多分、世間の叱責を恐れずに言うと「瞑想をすると煩悩を追いかけなくて済む様な脳になり(解脱する)、生病老死が気にならなくなるし、もう生まれ変わらずに済む(輪廻のサイクルから解放される)」というものであったと私は思う。これは天国に行くとか永遠の生命などとはほど遠い。いや、もともとの仏教が目指した解脱というのは天国にも生まれ変わらないというものなので、真逆だ。

元来親鸞は「念仏を唱えると、来世は現世のパラレルワールドである極楽浄土という地球に転生し、そこに生まれさえすれば阿弥陀如来がいて全ての人を解脱させる、つまり生まれ変わらずに済むようにしてくれる。」ということで解脱という目標を目指していた点は原子仏教と共通点があったと想像するが、これはまだわかりにくく、当時親鸞の教えを聞いた大多数の人は多分、キリスト教のようなわかりやすい「念仏を唱えると、天国に行って何不自由ない生活を送れる」を、現代風に言えは「酒はうまいしねーちゃんは綺麗なところでのんきに暮らせる」イメージしたのではないかと思う。

話が遠回りになったが、まとめると「先行者有利」と「分かりやすさ」を宗教の伝播力と呼応している考えると日本のキリスト教は、伝来したときはすでに、キリスト教と似ていてしかも分かりやすい、浄土真宗などが広まっていて、キリスト教にはチャンスがなかったのではないかというのが推察である。

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寄り道映画批評「キャロル」

「キャロル」

ケイト・ブランシェット主演の2015年制作「キャロル」を見た。ニューヨークを濡れた映像で美しく描いた秀作。ケイト・ブランシェットが50年代のタイトスカートに身を包み匂うように美しい。

 

この映画に出てくる男たちは、皆怒っている。キャロルの夫は、深く妻を愛していて、クリスマスを妻と娘と一緒に過ごしたいと自分の実家に誘うが、キャロルは拒絶する。もう一人の主役、テレーズに好意を寄せる男たちも彼女に怒っている。ボーイフレンドのリチャードは彼女をパリに誘うが、彼女はキャロルと旅に出ると言う。「きっと後悔するぞ」と言い残し、彼はテレーズの部屋から出ていく。

 

「キャロル」は秀逸な恋愛映画だ。恋愛や結婚の本質が映画によってあぶり出されてくる。この映画を観ていて、恋愛感情とは何かを考えているうち、脳の事が気になってきた。いろいろ調べて、怒りも悲しみも恋愛感情も脳内の「科学反応」つまり、「ケミカルリアクション」に強く影響されるとの考え方に出会った。

その考え方に沿って、キャロルに話を戻す。キャロルもテレーズも女性相手でしか、高揚しない。彼女たちの脳は、性をつかさどる部分が男性なのだろう。1950年代の話だから、こんなことは大っぴらには、言えない。生まれつき脳の構造が肉体的異性を対象にできないのだから、夫を愛せない(恋できない)のは当然で、努力で取り繕うにも限界がある。

このような極端なシチュエーションは、恋愛についての本質をあぶり出す。男女のふつうの恋愛でもつまりは「蓼食う虫も好きずき」という事だろうか。虫がどの蓼を好きなのかはその虫の「ケミカルリアクション」なのであって。虫の理性とは無縁でどうにもならない。これを人間の恋愛について置き換えれば、誰かがある人に恋愛感情を抱いても、その相手が好意を返してくれるかどうかは、その人の理性の問題ではなく、脳のケミカルリアクション次第と考えると、恋心を返してくれない相手を責めてもしょうがないということになる。男性に化学反応を起こさない女性を配置し恋愛を描いた、この映画はうまいことやったな、と思う。

ジョディフォスターは、実生活では人工授精で子供を授かり、女性を配偶者とし、公表してている。映画「キャロル」の主人公キャロルは、男性と結婚し、裕福な暮らしを手に入れ、子供を設けている。現代だから可能なのだと思うが、夫を苦しめたキャロルよりは、ジョディフォスターの生き方がいい感じがする。しかし、まあ「化学反応に左右されるなら、感情はあてにならない。」とも思える。映画のキャロルもう少し理性を使えたら、結婚はしかったかもしれない。あ。それでは映画にならないか・・・。

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哲学と宗教は何が違うのか?

プラトンはいっときイスラエルあたりに行って、自分の考えである「世界は合理的にできている」を説いて回ったらしい。その後この考え方は中東地域に根付いてユダヤ教に発展したようだ。ユダヤ教は「宇宙は全知全能のたった一つの神様がお造りになった。したがってすべて一つの真理に基づいて合理的にできている。」はずだ、というのが根本にある。この考え方はプラトン主義に他ならない。

このような合理主義はその後脈々と2000年以上受け継がれる。宗教としては、キリスト教、イスラム教と受け継がれ、科学としてはニュートン力学まで、哲学としてはデカルトまで続く。芸術にも影響を与える。写実的な古典派の絵画、数学的はバッハの音楽などは合理的で、神を思わせて美しい。

しかしその後これがどうも怪しくなってくる。科学ではゲーデルやアインシュタインあたりからが宇宙は合理的にはできていないのではないか、と言い出す。哲学ではニーチェが、神は死んだと言った。何も本当に神が死んだと言いたいのではない。神=合理主義と読み替えると、「合理主義は死んだ」といっている。

哲学であるプラト二ズム(プラトン主義)と、宗教であるユダヤ教やキリスト教。両方とも「合理主義」を信条としているのだが、この二つつまり「哲学」と「宗教」はどう違うのだろうか?

違いは・・、意外に答えるのが難しい。

相違を列挙すると・・。

同じ点

1)文献がある。哲学では著作、宗教では聖書や聖典など。

2)創始者がいる。哲学では歴史に名が残っている哲学者たち。宗教ではキリストやムハメッドなど教祖。

3)哲学も宗教もその論旨を自身の理屈でしか証明できない。

違う点

1)宗教には、教会やお寺などのわりあい立派な建造物が多いが、哲学にはない。

2)宗教では戦争になったりするが、哲学で戦争になったという話は聞いたことがない。

3)宗教団体という言葉はあるが、哲学団体という言葉はない。宗教は団体化するが哲学は団体化しないという事か。

三番目に書いた団体化という事がキーワードかもしれない。つまり、思想が思想のままなら哲学。それが団体化すれば宗教というわけだ。団体化という事は、政治化と言い換えても良い。つまり思想が政治化すれば宗教という事になりそうである。

こう考えると、政教分離とはおかしな言葉だ。思想が政治化して、宗教になるなら、政治化が宗教のレゾンデートルという事になる。にもかかわらす、宗教と政治を分けて考えるのは、なぜなのか?

一つ考えられるのは、ローマ帝国の庇護を受けるために、パウロが聖書で「ローマ人への手紙」で述べた、「人は今所属している政治権威に従うべきである。なぜならすべての政治権威は神様によって計画されたものだから。」という理屈。これにより世俗は政治が支配し、精神は宗教が支配するという二元支配がはじまり、政治は宗教を庇護し、宗教は政治に「戴冠」などを通じて権威を与える、「二王国論」が始まった。しかし、この理屈は「政教分離」などではなく、むしろ「政教相互依存」ともいうべき事態である。

東洋に目を向けると、インドの政治的リーダーであったマハトマ・ガンジーは熱心なヒンズー教徒だった。日本の政治リーダーの聖徳太子は仏教と切っても切り離せない。新大陸のアメリカは大統領が就任式で聖書に手を置く。これら政治リーダーは、特定の宗教と密接な関係で国を統治したと言える。

政教分離の本来の狙いを世界地図をじっと見ながら考えてみる。「政教分離」とは、実は「宗教」={政治の一形態」の前提の元、多数派宗教団体が、少数宗教団体からの決死の抵抗を回避するため、見た目上「宗教」と「政治」を分離したように見せかけ、少数宗教団体にある地域での共存を促す理屈ではないかと思えて来る。

紛争が記憶に新しい中東やボスニアなどを振り返ると、例えばボスニア。ある種の宗教であった共産主義がひとまとめにくくっていた地域が思想とともに崩壊し、混じって住んでいたムスリムとクリスチャンが「政教分離」の理屈を取り入れないまま、戦争に突入してしまった。今は分かれて住んでいる。

そこで、はたと思いついたのは、そのむかし仏教の布教活動を不要なものにした「檀家制度」を編み出した日本は、「政教分離」を最もうまく実践していた国だという事である。しかし、秀吉も長崎のキリスト教協会を檀家制度に組み入れた居たらに、もしかして弾圧をしなくてもよかったのでは・・・。

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日本人はなぜ英語ができないのか??という問題。

よく教育関係者の間で問題となるこの言葉。理由をいろいろ考えてみた。

まず理由として、よく言われるのは、「日本語と英語は違う」というもの。アメリカ人がフランス語をマスターするのは、日本語をマスターするより容易に違いない。女優のジョディ・フォスターはフランス語が堪能で、フランス語の吹き替えは自分の声を入れるらしい。

日本人が中国語をマスターするのと、フランス語をマスターするのではどちらが容易だろうか。中国語は漢字を使っているし中国と日本は歴史的に見て深いつながりがあるので、中国語の方が容易に見える。しかし、中国語学習者は皆苦戦している。

うーん。だんだん解らなくなってきた。

学習者が少ない言語を話す人は皆かなりレベルが高い。チェブラーシカというロシアのキャラクターを日本で使うため、原作者と交渉に行ったときロシア語ができる知人に同行してもらったが、完璧なロシア語と評判だった。

海外に住んだ経験のある日本人で英語ができない人は、会社の転勤などで海外に赴任した人達だ。一方、できる人はグリーンカードを取って永住を決意した人達。ほとんどネイティブのレベルの英語は使う。ある女性の元部下は、筆者も交えてアメリカの会社と電話会議をしたが、相手に彼女が日本人だとは気づかれなかった。

欧米留学経験者。英語ができない人が案外多い。テレビ局時代のある先輩はアメリカの有名私大を卒業して、卒業後はアメリカ人にアメリカ史を教えていたそうだ。そのころは英語が堪能だったはずであるが、私が知り合ったころには、独学の私より英語ができなかった。

いろいろ書き連ねたが、俯瞰してみるとどうもニーズがある人は外国語を習得しやすいようだ。

さて、日本人がなぜ英語ができないか、という本題に戻る。日本人は、受験以外、英語へのニーズが実はあまりない。普段の生活で英語が必要という事はまずない。

話は明治時代にさかのぼる。西周(にしあまね)や福沢諭吉は、欧米で生まれた近代の言葉を日本語に訳した。鉄道、新聞、改札、電話、哲学、経済などの言葉はrailway, newspaper, exit, telephone, philosophy, economicsなどの日本語訳である。これで、日本人は近代文明を自国語で勉強できた。アジアの国々、例えばフィリピン、インドネシア、マレーシアなどは近代語の自国訳語がないため、大学の教科書はいまだに英語だ。

日本人は会社に入って英語を使うことはまずない。筆者は出版社とテレビ局にいたが、英語は全く必要なかった。

日常生活を振り返ってみたい。たとえばテレビ。日本のテレビ番組はレベルがかなり高い。普通の日本人なら日本のドラマを見る方が海外のドラマを見るより断然楽しめる。日本の映画もまた面白い。テレビで放送すればハリウッドの予算100億円の映画より「極道の妻たち」の方が視聴率をとる。音楽も邦楽の売り上げは洋楽の4倍だ。

ここに「なぜ英語を学ぶか」というアンケート調査がある。1位は「趣味、自己啓発」。なんと英語学習者の65.1%が趣味を理由に英語を学んでいる。(2012年オリコン調べ)

見てきたように、幸運にもほとんどの日本人は、英語を話す差し迫ったニーズがない。英語を使う必要がないのだから「英語ができない」のは当然の帰着なわけで、表題の問題点の本質は、「日本人は英語ができない」ことを問題視するのが問題だ、と分かる。

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勇気の壁

meat思考の壁と呼び変えても良いかもしれませんね。例えば、男性でも上半身裸で銀座の街を平日に歩く事に少し抵抗があひとが大多数と思います。でも夏のビーチなら問題ない。会社で男同士で会議室で裸になるのは恥ずかしいけど、ゴルフの後に一緒に風呂に入るには何の抵抗もない。

やっていることは物理的に同じなのに、違った感情を抱くのは習慣とか文化がして良いこと悪いことを強力に強力に教え込んでいるからです。

女性をナンパするのもこれに似ている。以外に好みだな、と思っても声をかけられない人が大多数と思います。その人が運命の人かも知れなく、貴方の事を好きかも知れないのに。ちなみに私は平気で街行く人に声をかけることが出来ます。(恋人をゲットする目的で声をかけたことははありませんが)目的が相手の為なら声をかける気恥ずかしさを乗り越えられるのです。

一昨日JR総武線に真面目そうな女子高生がつり革の前にいました。結構かわいく英語の単語帳で日本語訳のところに緑色のラインマーカーを引いて赤い下敷きで黒く隠しかんきしていました。

私はこのブログでソシュール理論による言語習得法に関して詳説していますが、彼女の英語の勉強の仕方は効率が悪く、このままでは一生英語が好きにならないし使える様にならないかも知れないと思い、思い切って声をかけました。

最初、変なおじさんに声をかけられた彼女は戸惑いを隠せませんでしたが、「英語の勉強法についてアドバイスがあるのですが、お話ししてもいいですか?」と笑顔で話しかけたところ、かすかにうなずいたので説明をはじめました。彼女はMの欄を見ていてMEATとかMEETとかが並んでいました。

英語を見て日本語の訳を思い出すのはむしろ英語の能力を下げることになるので、出来れば日本語も消して思い出すのは日本語ではなく、MEATなら挽肉などの肉の映像、臭い、味など、MEATなら久々の友人と空港で待ち合わせして、出会ったときのシーンなどでその時の懐かしい気持ちとか空港の雑音などを思い出すと良いよといいました。

彼女は目を輝かせ始め、大きくうなずき、よく分かりました。本当に有り難う御座いますと、軽く礼をしてくれました。

彼女の英語の成績があがり大学に入学し、いろいろな事を学ぶうちに英語だけではなく全ての勉強は5感を総動員してその概念を鷲摑みにして口から食堂を通じて胃に超に、肝臓で貯めて血に載せて全身を巡らせて、自分のものになって行くんだと気づいてくれる感じがしています。

一昨日は、お節介でしたが、少しだけ良いことをしました。

でも、でも、でも問題の本質はここではありません。良いことなのに、中年男性が女子高生に声をかけると、援助交際など社会的タブーを思い出し思いとどまる人が多いであろうと言う事です。実は私もその壁に当たりましたが、乗り越えました。

そうぞうせいとは、そのようなタブー、あくまで善の為のタブーを打ち砕く事にあります。ここにくすぶっている火があるとします。火事を防ぐのに公衆の面前で臆面もなく達小便、女性はしゃがんで火を消すことができるか?

これが出来る人が、既成概念にとらわれずに真の創造性を発揮出来る人なのです。

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Q59.貴方は信仰心を持っていますか?

「鰯の頭も信心から」、ということわざがあります。昔の人は節分に、鬼退治としてイワシの頭を柊の枝にさして玄関に飾りました。つまらないものを信仰する人を皮肉る言葉です。でも、イワシの頭を飾り安心を得られるのであれば得るものは大きいと思います。

宗教を嫌う人、宗教を信仰しない人は、このイワシの頭・・・が出来ない人達です。心から信用し、理解し、帰依出来なければ信仰した事にはならないと考えるのです。しかし、自分の人生を預けるにも等しい、宗教の教義を完全に受け入れるのは容易な事ではありません。私も、特定の宗教の教義を100%受け入れてはいません。

しかし、私はイワシの頭を100%信じてはいませんが結構頼っています。さすがに鬼退治の為に頼っている訳ではありません。もちろん、イワシの頭を玄関に飾ってもいません。でも、神様の様なものに頼っているのです。心配事があると、「神様、助けてください」とお願いするのです。自分がまじめにベストを尽くせば神様が助けてくれると思って今までもずいぶん助けられたと考えています。

思い起こせば、ささやかな成功をおさめることが出来たり、苦難を乗り越える事が出来たのも、偶然にいい事が起こったからでした。この事を合理的に分析すると、神様のおかげと思うのが一番リアリティがあるのです。

自分は信仰心がない、と思っている経営者や経営幹部の方々は多いと思います。信仰心が無くても、神様にたまに頼ってみてはいかがでしょうか?偶然に助けられ、思い悩んでいた問題が解決したり、思ったより業績が上向いたりとしばらく時間をおくと実感されるに違いありません。

キリスト教の言葉に、「信じよ、さらば救われん」というのがありますが、どうも私の印象では、「すがりつけ、信じていなくても救われる」というのが真実な気がします。何しろ神様は広い心をお持ちなので。

第59章のまとめ

信じていなくてもいいから、たまに神様に頼ってみる。しばらくすると、ご利益があった事に気がつく。

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Q58.社長および社員は他社への説得やプレゼンテーションが得意ですかね?

プレゼンテーションは力です。プレゼン能力があれば食いっぱぐれはありません。オバマ大統領の勝因の一つはプレゼンテーション力と言われています。

数年前、アップルコンピュータのスティーブンジョブスのプレゼンを聞いたことがあります。大舞台の上で自信たっぷりに振る舞う彼は、見るものを釘付けにしました。何故釘付けに成ったか?それは彼の言葉は考えなくても、まるでスポンジが水を吸い込むように、頭の中に入ってしまうのです。パワーポイント(アップルのキーノートかも)を使っていましたが、ワンページワンセンテンスで細かくは口頭で説明していきます。英語がそんなに得意でなくとも十分に聞き取れます。

彼は、音楽事業を始めるとき、どのくらいのレコード会社が楽曲をITunesミュージックストアに提供してくれるかで成否が決まると思っていました。先ず、最も交渉の難しそうなソニーレコードに赴きました。先方のCEOはジョブズがプレゼンを初めてわずか3分ほどすっかり乗り気に成ったそうです。

彼がピクサーをディズニーに高額で売却し、ディズニーの個人筆頭株主に成ったのもプレゼン力、スタンフォード大学の卒業式であの有名なスピーチをしたのもプレゼン力です。

不肖私もプレゼンがうまいと言われていました。うまかったどうかは分かりませんが、プレゼン資料作成には時間を掛け分かりやすくし、声を出して練習もしました。このおかげで、会社設立時には資本金を得ることが出来たり、社員へのプレゼンで少なからず影響を与えることが出来たり、株主総会にも大変役立ちました。
プレゼンが苦手な人はバーバラミント著「書く技術考える技術」、ジェリーワイズマン著「パワープレゼンテーション」をおすすめします。
第58章のまとめ
プレゼンは力。社会で成功するための近道である。

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Q57.あなたは思い立ったら吉日で即実行に移すタイプですか?

なかなか着手出来ない人の中に完全主義者の人が多くいます。天の時、地の利、見方の士気などすべて揃わなければ開戦しないとの言い伝えがありますが、事ビジネスに限っては、早くやったもの勝ちです。

何故かと言えば、着手してから状況が変るからです。第16章で見たように「拙速」か「遅巧」か、とどちらが良いかと聞かれると、私は拙速をとります。立派な戦略を立てても、状況や相手の行動で状況はどんどん変わります。どのような展開に成るかはまさに、「わらしべ長者」か「人生万事塞翁が馬」のようなものと思います。多くの成功者はその成功の原因を「偶然が幸いした」といいます。しかし、この奥に隠されている真実は、多くの着手をしたから偶然にも出会えた、と言うことではないでしょうか?

プロイセンの将軍モルトケが100戦100勝だったのは組織論が良かっただけではありません。彼は、戦争に際して作戦を立てず、真っ白の心で臨んだそうです。もちろん彼の頭の内科には何十通りの作戦が入っていました。しかし、事前にどの作戦をとるかを決めずに、戦争現場に出向いた時に、天気、敵の様子、見方の様子などを見てどの作戦にするのか決めるそうです。彼は、戦争は戦う内に戦況が変わることをよく知っていだと思います。

私の本業インターネットの世界も今プログラム言語はruby on Railsというフレームワークが急速に伸びています。Rubyという言語を使ったこのフレームワークの特徴は、それまでタブーだった、開発しながら考える、つまり仕様を決るのに時間をかけないでいきなり開発に着手する。作りながらどんどん変えていくのです。状況の変化に対応する為には準備無しでいきなり本番に突入する事が大切です。

第57条のまとめ
準備はほどほどにしてとにかく着手し、いろいろ試すうちに成功の女神はやってくる。

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ソシュール理論による外国語学習法

英語が全く駄目だった筆者が言語学者であるソシュールにヒントを得て生み出した2年でTOEIC900点をめざせる全く新しいアプローチの外国語取得方法を紹介します。

髪林孝司プロフィール

髪林孝司

髪林孝司:
システム経営コンサルタント
職歴:
株式会社リクルート
(住宅情報事業部)
株式会社テレビ東京
(経理部、営業部、国際営業部、編成部、マーケティング部、イ ンターネット部などを歴任)

2001年
テレビ東京ブロードバンド企画設立
代表取締役社長就任
(主要株主;テレビ東 京、NTT東日本、シャープ、NECインターチャネル、集英社、角川ホールディングス、 小学館プロダクション、DoCoMoドットコム、ボーダフォン)

2005年
同社東証マザーズ上場

2006年
インターエフエム買収
代表取締役社長就任(兼任)
11年連続赤字累損22億の会 社を1年で4000万弱の黒字会社にターンアラウンド

2008年6月
テレビ東京ブロードバンド取締役退任

趣味:
ロードバイク
中華料理(家族の食事は私が作っています)
タブラ(インドの打楽器)