買う喜び
2020-03-10 (火)
今から30年近く前になるが、初代レッツノートを買った。その前はマックのノートを使っていた。当時は確か、会社で使うためにウィンドウズを買おうとおもって持ち運びやすいパソコンを探したらレッツノートだった。当時23万円くらいして高価と思った。しかし、半年くらいして、「買うときには迷ったが、この買い物はよかった。買い物とはこうあるべきだ。」と感じたのを覚えている。
満足度が高かった理由は、レッツノート自体が良かったのもあるが、それを仕事で大いに使って、私生活でも予想外に使って、つまり使い倒すことが出来たことにあった。たまに浮気もして、MACのノートを買ったりしたが、結局レッツノートに戻っている。このブログもレッツノートで書いて、初代以来確か6台目になる。
レッツノートはMACに比べて、買うときの興奮は少ない。MACはデザインも良く、カルチャーを感じさせて、買う時に喜びが溢れる。レッツノートは実用一点張りで、どうしてもこれが欲しいと思って買うことはまずない。パソコンが古くなったからそろそろ買おうかな、と思って買うのである。でも使っていると満足度がしみじみ出てくる。
買う喜びとは何であろうか?知り合いに村上さんという70代の女性がいる。この人はある種の買い物依存症で、テレビの通販を見ては、つい買い物をしてしまい、家の中が未開封の家電であふれている。彼女はいったい何のために買っているのだろう。未開封なのだから買った後には使っていない。本人に聞いてみると、買う時には、その製品を使って幸せになっている自分を期待して買うのだそうだ。
実はこの期待というのが曲者で、期待には中毒性があると、心理学者でベストセラー作家のケリー・マクゴニコルは著書「ウィルパワー」で述べている。人は快楽や幸せの中毒にはならないが、快楽や幸せの期待には中毒になるらしい。ネズミの実験で電極を脳の「期待」を感じる部位につけられ、スイッチを押すと電流が流れる仕掛けでは、ネズミは餌も取らずに電極を押し続けた。ゲーム中毒患者はもう少しゲームを続けると、新しいポイントがもらえるかもしれないという期待に逆らうことが出来ずに、ゲーム中毒になっていくらしい。
「期待」でものを買う時は、その服を着て周りから羨望の目で見られる自分を「期待」して高価な服を買う。そのヨットと一緒の充実した週末を「期待」して高価な船を買う。ロレックスの時計をして、重要な仕事をこなしている自分を期待して高価な時計を買う。でも、買った後は、せっかく買ったベルサーチの服はタイトで着心地が悪かったり、ヨットに乗るのは、年に4回(チャーターしたほうが安い!)だったり、ロレックスよりアップルウォッチが断然便利と高価なGMOマスターは机の中、という人は多い。
実用に焦点を当てて、買い物をすれば、欲望で財布が軽くなったり、買ったあとに自己嫌悪になったりせずに済む。私は、節約したいと思い、数年前から実用性でものを買うことにして、気が付いてみると身の回りの品物がすべて実用的なものになり、そのライフスタイルに知的なカッコよさを感じて満悦になったりしている。
しかしある時、この実用品に囲まれたカッコいいライフスタイルの強化を期待して、必要のない実用的なものを買って、ハッとした。ミイラ取りがミイラになった瞬間であった。期待の心に抗うのは、難しい。