善を行うということ
2019-12-05 (木)
種としての繁栄のために、その種を構成する個々の個体がどう振る舞うべきかは、習性という名前が付いている。オシドリのつがいが添い遂げるのは、それが倫理的だからではなく、種の繁栄のためにはつがいで責任ももって卵を守るのが有利だからである。一方、責任放棄ともいえる、托卵をするカッコウなどは倫理的にけしからんと言ってもそれは詮なき言いがかりであって、それもまた種の繁栄のための戦略である。いや、むしろカッコウやモズたちに神様がいたならその神様はきっと信者の鳥たちに「卵を預けて、他の鳥に育ててもらうのは神の意思に沿っている」教えているはずである。
さてオシドリのつがいが添い遂げると言うような「生きていく時の行動指針」つまり種繁栄のための戦略は、どの生物にも見られる。バッタのメスはオスを殺して食べる。阿部定は非難され丙午は忌諱されているが、バッタ界では夫殺しは推奨されているはずだ。皇帝ペンギンのオスは厳寒の冬の間中、絶食しながら卵をあたため、餓死寸前のところで、最後の栄養を生まれたての子供に与える。妻のペンギンが夫を探しあてると、子供を母親に託して命からがら、餌を探しにいく。人間の夫でここまで、献身的な人は少ないのではないか。
われわれ人間が“倫理”とか“道徳”とか呼んでいるものも、もともとは種繁栄のための戦略であった。種繁栄とは、具体的には衣食住を満たすこととほぼ同義と言えるし、衣食住を満たすということは、経済を繁栄させるということとやはり同義である。こう考えると、種繁栄=経済繁栄のための戦略が、形を変えて倫理とか道徳とか呼ばれるようになった訳で、普段われわれが思っているように、教え自体に意義があり、ある種の宇宙の心理などでは無いように思われる。
倫理や道徳はわかりやすい。ある行動が数理的に考えて自分たちの種繁栄の為に有利である、行動のたびにといちいち判断出来る人はほとんどいない。何かをしようとする時、もしくはしないと決める時、倫理、道徳もしくは宗教の教えに照らして決めたほうが、その行動は定着する。
イギリスの生科学者学者リー・クローニンは、宇宙においてあらゆる物質は存在する目的があり拡大する為に進化していくと考えている。生物は自己複製で拡大する。コピーを増やすことが生物の繁栄なら、クローニンによればそれは宇宙の意思である。こう考えると、倫理という名においてとった人間の行動は、結果的に自己複製のための合理的行動であり、これは宇宙の意思に沿っていることになる。宇宙の意思を神の意思と換言すれば、つまり「倫理的行動は神の意思」と言えて、古来からの教えはあながち真理から外れてはいなかった、と言うことになる。