人間は幸福を手にすることが出来るのか?
2019-11-15 (金)
最大多数の最大幸福という言葉がある。一人でも多くの人に少しでも多くの幸福をもたらす政治が良いという考え方だ。この考え方の裏には「幸福を追い求めるのは良い」という世間常識がある。
最近「幸福は追い求めるべきものなのか?」と疑問を持つようになった。幸福とは考えてみると、生か死か、とか奇数か偶数かようなゼロイチの問題ではなく、「幸福度」という言葉に度がつくことから解るように、温度や高度と同じように程度問題である。温度はどこからが冷たいのかどこからが熱いのかは人によって違うし、高度もどこからが高いのかは相対的だ。同じようにどこからが幸福なのか、どこからが不幸なのかは人によっても状況によっても違うし、この線引きは難しい。
程度問題なので幸福を求めはじめると、もっともっととなる。お金ももっと欲しいし、もっと良い家族が欲しいし、もっと広い家に住みたいし、もっと社会貢献もしたい、もっと認められたいとなる。
このようなことをすべて手に入れたであろう大富豪のロックフェラーは、晩年癌になり「もし癌直してくれる医者がいたら自分の財産の半分を寄進する」と言いながら死んでいった。
すべてを手に入れても、永遠の命が欲しい、年は取りたくない、病気も嫌である、となる。
筆者は若いころ神経質という病に苦しんだが、これは完璧な幸福を希求し、日常生活で身動きが出来なる病である。例えば少しでも幸福を得ようと、ジンクスや迷信が頭から離れなくなり、死を思わせる数字の4や苦労を思わせる数字の9を避けるあまり、本を読めなくなったり、外出できなくなったりした。体のどこかに違和感があると、癌ではないかと気に病み、必要もないレントゲン検査を繰り返し受けたりした。
宗教は人間が生まれながらにして持つ「幸福の欠如感」をいろいろな角度からアプローチする。シタールダ(釈迦)は、人間は「生病老死」と生まれながらに苦しい宿命を持っているので、瞑想に励み、このような苦しみが気にならない脳を得て、苦しい輪廻の輪(生まれ変わり)から抜出ることが出来るとした。イエスは、神を信じてよい行いに励むと最後の審判の時に生き返って天国に行ける。しかしこれは考えてみると、釈迦もキリストもこの世では幸せになれないと教えているようなものだ。
人類に多大な恩恵を与えた世界宗教が「真の幸せはこの世ではあきらめよ」と言っているのに世間では「幸福を追求するのは良い事だ」と思っていることになる。
疑問を一つ。これらの宗教を信じた人々は「所詮この世では不幸だ」と厭世主義になってもよさそうなものだが、実はそうではなかった。例えばアメリカの基礎を作ったピューリタンと呼ばれたキリスト教徒達は、「自分たちは神に選ばれて死後天国に行けることが約束されているのだから、神の期待に応えて、勤勉に働かなければならない」として、一所懸命働き世界をリードする国を作った。仏教徒たちも悟りを目指し、善い行いに励んだ。インド建国の父ガンディも現首相のモティ首相も敬虔なヒンズー教徒だ。
敬虔なキリスト教徒達、仏教徒たち、イスラム教徒たちは多分、現世での幸福を追い求めるのとはべつの動機で、現世で一所懸命生きてきたに違いない。この一所懸命が実はミソで、懸命に生きると、高尚な悩みを思い煩っている暇が無い。世の宗教は信者に忙しい日常を求める。あわただしい毎日を送っているうちに、気が付いたら死んでいた、という人生を送ることが出来る。最近、筆者はこれが幸福な人生ではないかと思っている。