2009-07-25 (土)
「うつ」かもしれないと思ったのは、サーフィンに行ったとき
私が、「自分はうつかもしれない」と初めて感じたのは、大好きなサーフィンに行ったときのことでした。いつものように一刻も早く海に入りたいと思ったのですが、何故かすぐに海に入ることは出来ませんでした。おっくうに感じたのです。その日は気を取り直し結局海に入って事なきを得たのですが、なんか変だなと思った最初の瞬間です。2006年の秋口でした。
当時私は、上場会社の社長とラジオ局との社長を兼任しており、多忙を極めていたのが背景にあります。それでも、たまに気分が暗くなる程度でうつとは思いませんでした。ネットで調べ西洋オトギリ草のサプリメント(ヨーロッパでは処方薬)を飲んでいまいした。
それよりさかのぼる事2年前、セサミストリート日本におけるのオールライツを私が中心となって取得したのですが、親会社の意向もあり取得後はある広告代理店に運営を任せる事にしました。しかし、過去約1年半の交渉期間を思い出し、大きな喪失感を感じました。今から思うとうつ一歩手前でした。そのときは、インドの聖典「ヴァカヴァットギーター」をむさぼる様に読み、2週間ほどで回復しました。
当時私が社長を務めていた会社のメイン事業は公式携帯コンテンツ。隆盛を極めていた事業でしたが、2006年をピークに下り坂に入ることは解っていました。次のメイン事業に動画コンテンツの配信を考えましたが、①権利処理プロセスがまだコンセンサスを得ていない、②社会インフラがまだブロードバンド配信に追いついていないという状況で、事業化は時期尚早というのが私の判断でした。
そこで、権利処理の道筋が見えていた音楽コンテンツの携帯での配信、それもラジオと一体となったサービスを行えば、当時まだまだ底堅い伸びを示していた携帯公式音楽ダウンロードサービスで時局を乗り切れると考えました。
。また、携帯キャリア特にAUはFMラジオ局に特別なサービスを提供していました。FMを聞きながら、気に入った曲がかかるとその場でその曲をダウンロード出来るというものです。FMラジオ放送局にのみ許されたこのシステムを使わない手は無いと思い、ラジオ局への経営参加を検討することとしました。
これは、実現すれば、民放の友好的M&Aの最初のケースになります。
買収のプロセスは大変でした。競合が3社、ラジオ局のオーナー会社の社内の意見の食い違い、などそれは厳しい道のりでした。結果的には、2006年3月に買収が成立し、私が兼任で代表取締役社長に就任しました。
早速ラジオ局のIT化と音楽ダウンロードのサービスを始めようとしたところ、様々な理由で、「IT事業は当分行わず、本業のラジオ事業をまず立て直す」ことになってしまいました。
音楽配信事業の出遅れが気になりました、ラジオ事業を立て直してから音楽配信事業を始めることとしました。買収した会社のラジオ事業は、赤字が続く会社でしたが、私が
社長に就任しちょうど一年後の2007年3月末締めの決算は3500万円程度の黒字に終わりました。
しかし、その後様々な自由が重なり、肝心の音楽配信ビジネスに参入出来ない状況になり、私は大きな喪失感を味わいました。このことが、長年積もり重なったストレスと相まって一気にうつを悪化させてしまいました。
会社の部下より、ある日一通のメールが来ました。そこには一言「早く行きましょう、精神科」と書かれていて、おすすめ精神科医院の住所と電話番号が書いてありました。2007年の1月に私は正式に精神科の患者になりました。
当時大株主の社長はこのことを知って、自分ではなかなか止められなかった上場企業の社長を下りるようにアドバイスと指示私は、休養生活に入る事が出来ました。
この時、もし精神科に行っていなければ、もし社長業を無理して続けていたら、と考えると、この元部下及び大株主には感謝しております。
実際休養生活に入りましたが、ちょうどこの頃が「うつ」のどん底で1人家で眠りながら妻の帰りを待つ。その待っている間の孤独感による苦痛は言葉で言い表しようが無いほどでした。、また音に対して敏感になり、近所に幼稚園があったので、幼稚園児の無邪気な遊ぶ声が大きな騒音を出すトラックの様で、大きな苦痛を感じました。
このブログの第一章に書きましたが、「うつ」のつらいのは、苦痛が絶え間なく長続きするところです。その身の置き場のない苦痛は2007年の秋まで続きました。
次回は、回復のきっかけ、回復のプロセスについて段階的にお話していきます。
私が、「自分はうつかもしれない」と初めて感じたのは、大好きなサーフィンに行ったときのことでした。いつものように一刻も早く海に入りたいと思ったのですが、何故かすぐに海に入ることは出来ませんでした。おっくうに感じたのです。その日は気を取り直し結局海に入って事なきを得たのですが、なんか変だなと思った最初の瞬間です。2006年の秋口でした。
当時私は、上場会社の社長とラジオ局との社長を兼任しており、多忙を極めていたのが背景にあります。それでも、たまに気分が暗くなる程度でうつとは思いませんでした。ネットで調べ西洋オトギリ草のサプリメント(ヨーロッパでは処方薬)を飲んでいまいした。
当時私が社長を務めていた会社のメイン事業は公式携帯コンテンツ。隆盛を極めていた事業でしたが、2006年をピークに下り坂に入ることは解っていました。次のメイン事業に動画コンテンツの配信を考えましたが、①権利処理プロセスがまだコンセンサスを得ていない、②社会インフラがまだブロードバンド配信に追いついていないという状況で、事業化は時期尚早というのが私の判断でした。
そこで、権利処理の道筋が見えていた音楽コンテンツの携帯での配信、それもラジオと一体となったサービスを行えば、当時まだまだ底堅い伸びを示していた携帯公式音楽ダウンロードサービスで時局を乗り切れると考えました。
東京の広域ラジオ局にM&Aで経営参加し、地上波の放送とインターネットによる音楽配信を同時に行い新しい収益の柱にするつもりでした。これは、実現すれば、民放の友好的M&Aの最初のケースになります。
買収のプロセスは大変でした。競合が3社、ラジオ局のオーナー会社の社内の意見の食い違い、などそで何度も頓挫しそうになりました。結果的には、2006年3月にM&Aが成立し、私が兼任で代表取締役社長に就任しました。
早速ラジオ局のIT化と音楽ダウンロードのサービスを始めようとしたところ、親会社の意向など様々な理由で、「IT事業は当分行わず、本業のラジオ事業をまず立て直す」ことになってしまいました。
音楽配信事業の出遅れが気になりましたが、ラジオ事業を立て直してから音楽配信事業を始ればよいと気を取り直し最初の一年がラジオ事業の立て直しに専心しました。買収したラジオ局は、赤字が11年も続く会社でしたが、私が社長に就任してちょうど一年後の2007年3月末締めの決算は3500万円程度の黒字に終わりました。同局始まって以来の黒字です。
しかし、その後親会社の意向などで、肝心の音楽配信ビジネスに参入出来ない状況になってしまいました。株主などに説明していた事業モデルの遂行が親会社の政治的理由で遂行出来なくなったのです。私は大きな喪失感を味わいました。このことが、長年積もり重なったストレスと相まって一気にうつを悪化させてしまいました。
会社の部下より、ある日一通のメールが来ました。そこには一言「早く行きましょう、精神科」と書かれていて、おすすめ精神科医院の住所と電話番号が書いてありました。2007年の1月に私は正式に精神科の患者になりました。
この時、もし精神科に行っていなければ、もし社長業をその後も長く無理して続けていたら、と考えると、この元部下には感謝しております。
初めて診察を受けた翌年の5月より休養生活に入りました。ちょうどこの頃が「うつ」のどん底でした。家では1人ベッドで横たわりながら仕事がえり妻の帰りを待つ。その待っている間の孤独感による苦痛は言葉で言い表しようが無いほどでした。また妻が帰ってきた時の安心感。妻には今でも感謝しています。
このブログの第一章に書きましたが、「うつ」がつらいのは、理由の分からない苦痛が絶え間なく長続きするところです。その身の置き場のない苦痛は2007年の秋まで続きました。
次回は、回復のきっかけ、回復のプロセスについて段階的にお話していきます。
「私が読んだ中で一番読みやすかった本」

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