上場企業の社長が鬱になりました

うつの回復、それは突然やってくる

私がうつの時につらかったのは、その時々のつらさもさることながら、このつらさが一生続くのではないか?と言う不安感です。うつは初めの頃はなかなか回復を実感できず一生直らないのではないかと落胆します。

病院に行き始めた年の春、気分の落ち込みを我慢しながら、毎年の花見シーズンに恒例だった親しい友人宅での花見パーティに参加しました。親友の奥さん(奥さんも今では親友)の言葉が当時の私を随分慰めてくれました。

彼女の友人でうつの人がいてやはり直らないのではと思い悩んでいた。回復がなかなかすすまなかったので絶望していたが、ある日突然回復が始まり、今では完全に直ってしまったとのこと。

そのときは、「あれっ、私は直っている」とキョトンとしたそうです。よく、英語の学習者が「なかなか英語が出来るようにならず、学習意欲を保つのが大変だったが、ある日急に英語が出来るようになった」と言います。実は私も若いときに英語で同じ体験をしました。ある日映画館に行って映画を見ていた所、字幕を見ていない自分を発見しあっけにとられたものです。

私のウツ回復も同じでした。最初のうちは、とにかくなかなか回復の兆しが見えない。直らないかも知れないという不安がますますうつを悪化させる堂々巡りでした。薬を変え6ヶ月程度経過したときに回復を実感し始めました。それからは毎日回復を実感出来る日が続き、人生に希望を持てるようになりました。

良く、うつに関する本に回復期は三寒四温とあります。つまり、良くなったり悪くなったりの日が続くと言うことです。私の場合も回復期には山谷がありました。しかし少なくとも山の日があることが解っただけで、将来は山の日が多くなっていくのだろうと類推でき大変救われた思いが下ものです。

そしてその日は突然訪れました。「あっ、俺は直った」と思える日がとうとう来たのです。うつに苦しむ皆さんも必ずこの「あれっ?直っている」と思える日が訪れます。

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サーフィンに行ったとき 「うつ」かもしれないと思った。

「うつ」かもしれないと思ったのは、サーフィンに行ったとき
私が、「自分はうつかもしれない」と初めて感じたのは、大好きなサーフィンに行ったときのことでした。いつものように一刻も早く海に入りたいと思ったのですが、何故かすぐに海に入ることは出来ませんでした。おっくうに感じたのです。その日は気を取り直し結局海に入って事なきを得たのですが、なんか変だなと思った最初の瞬間です。2006年の秋口でした。
当時私は、上場会社の社長とラジオ局との社長を兼任しており、多忙を極めていたのが背景にあります。それでも、たまに気分が暗くなる程度でうつとは思いませんでした。ネットで調べ西洋オトギリ草のサプリメント(ヨーロッパでは処方薬)を飲んでいまいした。
それよりさかのぼる事2年前、セサミストリート日本におけるのオールライツを私が中心となって取得したのですが、親会社の意向もあり取得後はある広告代理店に運営を任せる事にしました。しかし、過去約1年半の交渉期間を思い出し、大きな喪失感を感じました。今から思うとうつ一歩手前でした。そのときは、インドの聖典「ヴァカヴァットギーター」をむさぼる様に読み、2週間ほどで回復しました。
当時私が社長を務めていた会社のメイン事業は公式携帯コンテンツ。隆盛を極めていた事業でしたが、2006年をピークに下り坂に入ることは解っていました。次のメイン事業に動画コンテンツの配信を考えましたが、①権利処理プロセスがまだコンセンサスを得ていない、②社会インフラがまだブロードバンド配信に追いついていないという状況で、事業化は時期尚早というのが私の判断でした。
そこで、権利処理の道筋が見えていた音楽コンテンツの携帯での配信、それもラジオと一体となったサービスを行えば、当時まだまだ底堅い伸びを示していた携帯公式音楽ダウンロードサービスで時局を乗り切れると考えました。
。また、携帯キャリア特にAUはFMラジオ局に特別なサービスを提供していました。FMを聞きながら、気に入った曲がかかるとその場でその曲をダウンロード出来るというものです。FMラジオ放送局にのみ許されたこのシステムを使わない手は無いと思い、ラジオ局への経営参加を検討することとしました。
これは、実現すれば、民放の友好的M&Aの最初のケースになります。
買収のプロセスは大変でした。競合が3社、ラジオ局のオーナー会社の社内の意見の食い違い、などそれは厳しい道のりでした。結果的には、2006年3月に買収が成立し、私が兼任で代表取締役社長に就任しました。
早速ラジオ局のIT化と音楽ダウンロードのサービスを始めようとしたところ、様々な理由で、「IT事業は当分行わず、本業のラジオ事業をまず立て直す」ことになってしまいました。
音楽配信事業の出遅れが気になりました、ラジオ事業を立て直してから音楽配信事業を始めることとしました。買収した会社のラジオ事業は、赤字が続く会社でしたが、私が
社長に就任しちょうど一年後の2007年3月末締めの決算は3500万円程度の黒字に終わりました。
しかし、その後様々な自由が重なり、肝心の音楽配信ビジネスに参入出来ない状況になり、私は大きな喪失感を味わいました。このことが、長年積もり重なったストレスと相まって一気にうつを悪化させてしまいました。
会社の部下より、ある日一通のメールが来ました。そこには一言「早く行きましょう、精神科」と書かれていて、おすすめ精神科医院の住所と電話番号が書いてありました。2007年の1月に私は正式に精神科の患者になりました。
当時大株主の社長はこのことを知って、自分ではなかなか止められなかった上場企業の社長を下りるようにアドバイスと指示私は、休養生活に入る事が出来ました。
この時、もし精神科に行っていなければ、もし社長業を無理して続けていたら、と考えると、この元部下及び大株主には感謝しております。
実際休養生活に入りましたが、ちょうどこの頃が「うつ」のどん底で1人家で眠りながら妻の帰りを待つ。その待っている間の孤独感による苦痛は言葉で言い表しようが無いほどでした。、また音に対して敏感になり、近所に幼稚園があったので、幼稚園児の無邪気な遊ぶ声が大きな騒音を出すトラックの様で、大きな苦痛を感じました。
このブログの第一章に書きましたが、「うつ」のつらいのは、苦痛が絶え間なく長続きするところです。その身の置き場のない苦痛は2007年の秋まで続きました。
次回は、回復のきっかけ、回復のプロセスについて段階的にお話していきます。

私が、「自分はうつかもしれない」と初めて感じたのは、大好きなサーフィンに行ったときのことでした。いつものように一刻も早く海に入りたいと思ったのですが、何故かすぐに海に入ることは出来ませんでした。おっくうに感じたのです。その日は気を取り直し結局海に入って事なきを得たのですが、なんか変だなと思った最初の瞬間です。2006年の秋口でした。

当時私は、上場会社の社長とラジオ局との社長を兼任しており、多忙を極めていたのが背景にあります。それでも、たまに気分が暗くなる程度でうつとは思いませんでした。ネットで調べ西洋オトギリ草のサプリメント(ヨーロッパでは処方薬)を飲んでいまいした。

当時私が社長を務めていた会社のメイン事業は公式携帯コンテンツ。隆盛を極めていた事業でしたが、2006年をピークに下り坂に入ることは解っていました。次のメイン事業に動画コンテンツの配信を考えましたが、①権利処理プロセスがまだコンセンサスを得ていない、②社会インフラがまだブロードバンド配信に追いついていないという状況で、事業化は時期尚早というのが私の判断でした。

そこで、権利処理の道筋が見えていた音楽コンテンツの携帯での配信、それもラジオと一体となったサービスを行えば、当時まだまだ底堅い伸びを示していた携帯公式音楽ダウンロードサービスで時局を乗り切れると考えました。

東京の広域ラジオ局にM&Aで経営参加し、地上波の放送とインターネットによる音楽配信を同時に行い新しい収益の柱にするつもりでした。これは、実現すれば、民放の友好的M&Aの最初のケースになります。

買収のプロセスは大変でした。競合が3社、ラジオ局のオーナー会社の社内の意見の食い違い、などそで何度も頓挫しそうになりました。結果的には、2006年3月にM&Aが成立し、私が兼任で代表取締役社長に就任しました。

早速ラジオ局のIT化と音楽ダウンロードのサービスを始めようとしたところ、親会社の意向など様々な理由で、「IT事業は当分行わず、本業のラジオ事業をまず立て直す」ことになってしまいました。

音楽配信事業の出遅れが気になりましたが、ラジオ事業を立て直してから音楽配信事業を始ればよいと気を取り直し最初の一年がラジオ事業の立て直しに専心しました。買収したラジオ局は、赤字が11年も続く会社でしたが、私が社長に就任してちょうど一年後の2007年3月末締めの決算は3500万円程度の黒字に終わりました。同局始まって以来の黒字です。

しかし、その後親会社の意向などで、肝心の音楽配信ビジネスに参入出来ない状況になってしまいました。株主などに説明していた事業モデルの遂行が親会社の政治的理由で遂行出来なくなったのです。私は大きな喪失感を味わいました。このことが、長年積もり重なったストレスと相まって一気にうつを悪化させてしまいました。

会社の部下より、ある日一通のメールが来ました。そこには一言「早く行きましょう、精神科」と書かれていて、おすすめ精神科医院の住所と電話番号が書いてありました。2007年の1月に私は正式に精神科の患者になりました。

この時、もし精神科に行っていなければ、もし社長業をその後も長く無理して続けていたら、と考えると、この元部下には感謝しております。

初めて診察を受けた翌年の5月より休養生活に入りました。ちょうどこの頃が「うつ」のどん底でした。家では1人ベッドで横たわりながら仕事がえり妻の帰りを待つ。その待っている間の孤独感による苦痛は言葉で言い表しようが無いほどでした。また妻が帰ってきた時の安心感。妻には今でも感謝しています。

このブログの第一章に書きましたが、「うつ」がつらいのは、理由の分からない苦痛が絶え間なく長続きするところです。その身の置き場のない苦痛は2007年の秋まで続きました。

次回は、回復のきっかけ、回復のプロセスについて段階的にお話していきます。

「私が読んだ中で一番読みやすかった本」

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ウツに至までのストレス蓄積、トリガー、遺伝などに関して

うつに遺伝性があると言われています。ただしどの程度遺伝的要素が関与するのかは、解っていません。いろいろな文献や精神科の先生のお話を聞くと、ストレス、過労、環境の変化、家族の状況など総合的な要因で発病するとのことで、遺伝はその一要素に過ぎないと言うものでした。
実は、私の母方の家系で「うつ」の人が多く出ています。母は末娘でしたが、長男は「うつ」により服毒自殺、長女も自殺、長女の息子(つまり)私の従兄弟は焼身自殺未遂でした。母の兄弟は6人でそのうち2人がうつ。9人の従兄弟の内1人が自殺未遂と言うことになります。
私の母は「うつ」にはなりませんでした。母は40代後半で脳出血により長期療養生活に入りました。もし、脳出血が無ければ晩年「うつ」になっていたかどうかは今となっては知るよしもありません。
私の場合は、40代中盤までは全くと言っていいほど「うつ」の気配さえ感じたことはありませんでした。39歳で会社の社長となり、資本金が振り込まれ、従業員が増えてくるとプレッシャーも大きくなり、真綿で首を締められるような感覚を覚えましたが、あの感覚は「うつ」とは違うものでした。
「うつ」は発病まで徐々に徐々に進行するものと思います。そして、少し疲れてきたな、気分が乗らないなーという状況が半年程度経ったころ発病の条件が揃うというのが私の体験です。
条件が整った状態は「うつ」を発病はしていないので、例えば、趣味のサーフィンに行っても最初の内は少しおっくうに感じたりしますが、気を取り直しサーフィンを楽しむことが出来ます。この状態では発症とは言えないと思います。
多くの本を読むと、「うつ」の発症にはトリガーとなるものがあるとあります。定年退職、左遷、リストラなどネガティブなものだけではなく、昇進、栄転、結婚、出産などポジティブな環境の変化も「うつ」のトリガーになり得ます。
私の場合は、会社上場後2年間準備し、スタートさせた新規事業をあるこの事業とは関係無い理由で突然止めざるを得なくなったことです。そのときには大きな喪失感を感じ、一気に「うつ」発病まで行ってしまいました。
トリガーとしては、やはり喪失体験(配偶者の死、娘の嫁入り、事業の失敗など)が多い様です。ただし、この喪失体験が病気の原因とそのときは思いますがそうではありません。あくまで、トリガーであって、それまでの長年のストレスの沈滞物がトリガーによって発火したとでも言いましょうか、そんな感じです。
次回は発症後どん底に至までをお話します。

うつに遺伝性があると言われています。ただしどの程度遺伝的要素が関与するのかは、解っていません。いろいろな文献や精神科の先生のお話を聞くと、ストレス、過労、環境の変化、家族の状況など総合的な要因で発病するとのことで、遺伝はその一要素に過ぎないと言うものでした。

実は、私の母方の家系で「うつ」の人が多く出ています。母は末娘でしたが、長男は「うつ」により服毒自殺、長女も自殺、長女の息子(つまり)私の従兄弟は焼身自殺未遂でした。母の兄弟は6人でそのうち2人がうつ。9人の従兄弟の内1人が自殺未遂と言うことになります。

私の母は「うつ」にはなりませんでした。母は40代後半で脳出血により長期療養生活に入りました。もし、脳出血が無ければ晩年「うつ」になっていたかどうかは今となっては知るよしもありません。

私の場合は、40代中盤までは全くと言っていいほど「うつ」の気配さえ感じたことはありませんでした。39歳で会社の社長となり、資本金が振り込まれ、従業員が増えてくるとプレッシャーも大きくなり、真綿で首を締められるような感覚を覚えましたが、あの感覚は「うつ」とは違うものでした。

「うつ」は発病まで徐々に徐々に進行するものと思います。そして、少し疲れてきたな、気分が乗らないなーという状況が半年程度経ったころ発病の条件が揃うというのが私の体験です。

条件が整った状態は「うつ」を発病はしていないので、例えば、趣味のサーフィンに行っても最初の内は少しおっくうに感じたりしますが、気を取り直しサーフィンを楽しむことが出来ます。この状態では発症とは言えないと思います。

多くの本を読むと、「うつ」の発症にはトリガーとなるものがあるとあります。定年退職、左遷、リストラなどネガティブなものだけではなく、昇進、栄転、結婚、出産などポジティブな環境の変化も「うつ」のトリガーになり得ます。

私の場合は、会社上場後2年間準備し、スタートさせた新規事業をあるこの事業とは関係無い理由で突然止めざるを得なくなったことです。そのときには大きな喪失感を感じ、一気に「うつ」発病まで行ってしまいました。

トリガーとしては、やはり喪失体験(配偶者の死、娘の嫁入り、事業の失敗など)が多い様です。ただし、この喪失体験が病気の原因とそのときは思いますがそうではありません。あくまで、トリガーであって、それまでの長年のストレスの沈滞物がトリガーによって発火したとでも言いましょうか、そんな感じです。

次回は発症後どん底に至までをお話します。

私が発症前に最初に読んだ本。この本を読んでおいて良かったと思います。会社の人事厚生担当者は必読と思います。

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うつの原因は解明されていない?

私は藁をもすがる思いで、「うつ」に関する本をむさぼり読みました。25冊は読んだと思います。そしてだんだん解ってきたことは、「うつ」の発症や完治について、医学的にはまだ解明されていない、ということです。諸説ありますが、定説は無いのです。

風邪をひいたとき市販の風邪薬を飲む人は結構いるとおもいます。しかし、風邪薬の効能は症状の緩和であって、風邪そのものを根治するものではありません。同じように、抗うつ剤も「うつ」の原因そのものを取り除くような薬ではなく、症状を緩和するいわば痛み止めや解熱薬の様なものなのだと理解しました。抗うつ剤という痛み止めで時間を稼ぎ、自然治癒を待つ。もしくは、抗うつ剤により自然治癒のスピードを早めるということが狙いだとハッキリ理解したのです。

以前のブログで「うつ」のときは体が痛みを感じていると同じであると申しました。痛いのなら痛み止めを飲み、ついでに化膿止めものみ、自然治癒を待つのが適切です。薬無しでそこを無理に堪え忍ぶのはかなりの苦しさと思います。従って、医師の言いつけを守り薬を飲むことを私は推奨します。

よく家族や友人などの生兵法的なアドバイスで薬を飲むのを止めろと言うのがあります。本当に薬を止めててしまい、「うつ」が再発する人を散見します。私もこのような無責任なアドバイスを受けたことがありますが、本当に罪作りなことだと思います。

さて、いろいろな本を読んで根本原因はまだ解明されていないことが解りました。しかし、諸説の中で、「うつ」という病気の現象面を見て、どうもこうなものではないか?という私なりの考えが徐々に固まって来ました。下記をご覧下さい。

それは、

① 長期に渡るストレスにより脳の扁桃帯の興奮状態が続く

②  興奮状態を緩和するため、脳内の感情伝達物質である、セロトニン、ノルアドレナリンなどの分泌量が減る。

③  重く沈んだ精神状況になり、体を休めざるを得なくなる。

④  体は休めざるを得ないが、精神は休めない。

次に説明することは、下園さんというカウンセラーの本を読み、私が妙に納得したものです。それは「狩猟時代の人類は長期にわたってストレスが続くと、脳が自動的に体を休めるためうつ状況になる。しかし、休んでいる間もいろいろな危険はつきまとうので、神経を張って寝ない状況にしていなければ殺されてしまう。そこで体は休めるが神経は休めない状況を作り出す様に人類は進化してきたのではないか?その名残で現代人も体は動かなくなるが、神経は張り詰め不眠が続くのではないか、」と言うものです。

⑤現代は医学が発達し体の疾病は早く治るが、精神疾病の方はなかなか直らない。しかし、古代の人類は医学も未発達で、体の疾病が治るまで1-2年はかかった。その間は「うつ」の状況が続くように進化してきた。

⑥抗うつ剤は対処療法とはいえ、その効果は絶大である。従って必ず飲んだ方がよい。

⑦人によって合う薬と合わない薬があるので、主治医の先生と相談しながらいろいろな薬を試してみる。

⑧通常薬が効き始めるまで、3-4週間かかる。従って最低一ヶ月は続けて同じ薬を飲み効果を計る。

⑨半年から1年で最悪の状態を脱する。

⑩その後は半年程度、三寒四温的に揺れながら徐々に回復していく。

⑪9割方直った状況で良しとする。直っても薬を1-2年飲み続け、再発を避ける。

以上です。どこかの哲学者が、「人生は、ややうつの方がよい」と言ったそうです。100%回復にこだわるといつまでたっても直った感じがしません。そこは、糖尿病の様にうまくこの病気とつきあっていくと言う態度が望ましいと思います。

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「うつ」の症状

「うつ」の症状は様々です。お医者様が書かれたウツの本を読むと詳しく書いてあります。

私の場合は、「アイスピックでどこかを刺された様な心の痛みが永遠に続く」というものでした。一瞬の間なら痛みも我慢出来ますが、ウツがつらいのは「ずっと続く」所にあります。常につらく(痛い感覚と似ている)、それがこの先も続くと思うと絶望するのです。本などにはいつか直ると書いてあります。そこに希望を見出そうとするのですが、現実に今痛みが続いているので、直ると言うことが想像出来なくなります。

また、食欲も湧きません。人は、どこかが本当に痛くそれが続くとき、ご飯を食べられないものだと思いました。性欲もゼロになります。ましてや仕事や他の人生に関する欲求がすべてゼロになり、なにに対しても興味を完全に失います。いやむしろ興味を持つことが苦痛になります。新聞を読むのも苦痛ですし、そもそも理解出来なくなります。テレビはもっと苦痛。家族に話しかけられるもの苦痛。そこいら中に苦痛の文字が散在しているのが「うつ」の現実です。

私は、自分が「うつ」だと解っても仕事を辞めることが出来ませんでした。上場企業の社長は簡単に辞任することはできません。ましてや自分の作った会社で、従業員も自分が雇った人たちです。責任感が自分を許しませんでした。

会社に通いながらの治療が約2年続きました。症状は徐々に悪化し、まわりの人にも気づく人が増えて来ました。医師からも休暇を勧められていた所、株主より体調が悪そうなので、一旦社長を降りてはどうかという打診があり、正直そのときはホットしました。

その後取締役として在籍しながら休暇に入りました。

ところが、休み初めても一向に良くなりません。思い浮かぶのは、会社の事、孤独感などです。妻と二人暮らしをしていましたが、妻が仕事に行き帰って来るまでは一人っきりで、つらい思いをしました。後で妻に効きましたが、子供のように寂しがり自分もしんどかったそうです。徐々に分かり始めたのですが、娑婆(現実社会)の事は一旦すべて諦めて治療に専念することが必要でした。

音にも敏感になります。近所に幼稚園があり、園児達の騒音が耳を刺すように毎朝響きました。中でも、幼稚園の運転手さん兼用務員さんの初老のおじさんが子供とボール遊びをしているときの声が大きく、声が俳優の阿藤快さんそっくりで耳に変に響くのです。毎日阿藤快さんの声を嫌々聞くので、ご本人を嫌いになりそうでした。

あと不眠です。「うつ」になると毎日まったくに眠ることが出来なくなります。精神科のお医者さんに睡眠導入剤を処方してもらってだいぶん楽になりましたが、それでも1-2時間おきに目が覚め、朝方5時頃に目が覚めるともう眠る事が出来ない状況でした。いろいろな睡眠導入剤の組み合わせを試して、半年ほどで朝まで眠ることが出来、昼間そんなに眠気が残らない処方を先生と協力して探しあてました。

まわりの人にこのつらさを解ってもらうのは、非常に困難です。この共感が難しいところも「うつ」のやっかいな所です。

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最初は「うつ」に気づかない。

今から思っても、いつから「うつ」だったのかはっきりしません。そう、「うつ」の人は自分が「うつ」という病気であると気がつきません。病気と気がつかないから、自分を責めるのです。曰く「俺はこんなふぬけではなかった」とか「私は家事に関しては一切手を抜かなかった」などです。出来るはずの事ができなく、ただ無性に悲しいので自分に根性がないからだと根性論と結びつけ病状を悪化させる人も少なくありません。

一色さんの本やツレウツなどを読んでも最初病気とは気がつかなかったとのこと。私もそうでした。この気がつかない期間が長ければ長いほど回復に時間がかかるとのことです。癌などの体の病気と同じです。世間では、「うつ」は心の風邪などと言われていますが、一色さんは「うつ」はそんな生やさしいものではない。命に関わると言う意味では、また私の意見ですが早期発見が大切なことも含めると「心の癌」と言うべきだと書いてあり私もそう思います。

私は最初に変だなと思ったのは楽しいはずのサーフィンに行っても楽しくない日がたまににあった事です。そのときは病気とは思いません。その後徐々に悪化し、3年ほど前の1月4日、ある事件が起こり一気に悪化しました。この時は、妻と二人で郷里の札幌に行き、パウダースノーで有名なニセコに宿泊していました。私だけ日帰りで当時の勤務先の新年祝賀会に出席して日帰りで又ニセコに戻りました。トリガーは4時間ほど会社にいる間に起こりました。トリガーの内容は詳しくお話しても意味はありませんので省きますが、喪失感を伴ったものでした。そのときはしばらく寝ていれば良いと思い、とんぼ返りでニセコに戻りました。ところが得意なはずのスキーが全く出来ません。足に力が入らないのです。この時妻には温泉にあたったみたいだとごまかしておきました。

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当時はこのトリガーが原因のすべてと考えていましたが、今は「うつ」になる下地が既に出来ていて、トリガーはきっかけに過ぎなかったと思います。つまり、トリガーがなくともいずれ「うつ」になっていたということです。

ある日、「うつ」体験を持つ女性社員から一通のメールが来ました。そこにはこう書いてありました。「早く行こう、精神科」そして彼女が通う浅草橋の精神科クリニックの電話番号と初診のときは電話してからなどの説明がありました。余談ですが、彼女も同じクリニックに通っていたため、一度鉢合わせをしてそのときは話が弾みました。

その後彼女を会長に私が庶務課長で会社に「うつ」の会を作りました。非公式でしたが・・・。

もし、彼女からのメールが無かったらと思うと寒気を感じます。彼女には非常に感謝しています。

そう、「うつ」の人は自分が「うつ」という病気なのだと気がつかないのです。誰かがぽんと背中を押してあげる必要があります。病院に家族が同行するのもいいでしょう。一色さんの本には奥様に無理矢理連れていかれた事がおもしろおかしく綴られています。

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経営者のうつ

自殺者3万人の時代、「うつ」は10年連続で原因の第一位です。自殺まで追い込まれるのは、リストラにあった従業員より、経営に行き詰まった中小企業の経営者に多いことは新聞などを見ても感じ取れます。そういう私も会社上場後に社長でありながら「うつ」と診断されました。しかし今、私は近い将来に、完治すると確信を深めています。

精神科医によるうつの本をずいぶん読みました。医学的な知識は治療の方針などを理解するのに大変役に立ちました。しかし病気の説明だけでは共感を感じにくいもの事実です。実際にうつになり、うつのつらさを経験した人が書いた本は、感情的に共感でき、私の心を軽くしてくれました。特に私が救われたと思えた本は2冊。一つめは脚本家の一色伸幸さんの書いた「うつから帰ってきました」です。これは家族の方に読んでいただいてもすばらしい本です。そしてさすが一色さん、読んでいて面白い。もう一つは今話題の「ツレうつ」です。

実際にうつを患った人が書いた自叙伝的なものは、いまうつに苦しむ人にとって一筋の光となると思います。少なくとも私はそうでした。私は、上場経営者でありながらうつを経験した人です。自殺に至るケースが少なくない経営者のうつに対して、私の経験を申し上げる事により、少しでもお役に立てることが出来れば、幸いです。週一回の更新です。

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ソシュール理論による外国語学習法

英語が全く駄目だった筆者が言語学者であるソシュールにヒントを得て生み出した2年でTOEIC900点をめざせる全く新しいアプローチの外国語取得方法を紹介します。

髪林孝司プロフィール

髪林孝司

髪林孝司:
システム経営コンサルタント
職歴:
株式会社リクルート
(住宅情報事業部)
株式会社テレビ東京
(経理部、営業部、国際営業部、編成部、マーケティング部、イ ンターネット部などを歴任)

2001年
テレビ東京ブロードバンド企画設立
代表取締役社長就任
(主要株主;テレビ東 京、NTT東日本、シャープ、NECインターチャネル、集英社、角川ホールディングス、 小学館プロダクション、DoCoMoドットコム、ボーダフォン)

2005年
同社東証マザーズ上場

2006年
インターエフエム買収
代表取締役社長就任(兼任)
11年連続赤字累損22億の会 社を1年で4000万弱の黒字会社にターンアラウンド

2008年6月
テレビ東京ブロードバンド取締役退任

趣味:
ロードバイク
中華料理(家族の食事は私が作っています)
タブラ(インドの打楽器)