言葉が先で、事物は言葉により定義される
2009-07-21 (火)
前回の答えは「言葉が先」です。元々世界は混沌とシームレスもしくは、微分的に細かく原子核まで分けて考える事も可能です。オルダスハッスクレーの有名な著作に「知覚の扉」があります。彼がある種のドラックにより、宗教で言うところの悟りを開いた状態になったとき、5感の数が増えていき20感、50感、100感となっていきました。そしてドラックから覚めたときに気がついたのは、人間の5感は事物や情報を感じ取る為のものではなく、むしろ事物や情報を5感に閉じこめ、制限するためのもの、と言うことでした。
例えば海を美しく泳ぐオウムガイは触覚、嗅覚、味覚の3感です。オウムガイは人間の持つ視覚、聴覚を持ち合わせていません。3感に制約されて生きています。でも、彼らはたぶん自分の3感がすべてと思っていて、世の中に他の感覚があるとは想像もしていないと思います。人間の5感も同じことなのです。
地球全体を一個と見ることも、分子、原子レベルまで区分けすることも、「認識」という意味では、根本的に同じです。
しかし、どのような言語を使っている人間も、おおよそ2万語を操り、事物を区別しているようなので、人間の言葉による認識は、分子レベルより大きくと地球レベルより小さい中の中間地点のどこかと言うことになります。
本題に戻りますが、「事物を区分けしているのは、言葉であり言葉の数だけ区分け(=つまり認識できる事物)があるというのが、ソシュールさんの発見の真骨頂です。
北極圏のイヌイット族にはオオカミと犬を区分けする言葉がありません。言葉が同じなので、事物である犬とオオカミも同じものと考えられています。